昨日京都は夕方から雨でした。
こぬか雨というのか、こまかな水滴が肌に妙にまとわりつくように感じました。
街頭での訴えの間傘を差さないでいたので髪が濡れてしまい、
あとで大丈夫だろうか、とひどく心配になりました。
車の中で
「帰ったら髪を洗わなくちゃいけないんだよね」とか
「降り出した雨が危ないんだから、途中の雨は大丈夫のはずですよ」とか
「私なんかあと生きてどうせ二十年だし。でもあなたはまだまだよね」とか
女性同士で言い合っているうちに、心まで濡れるように悲しくなりました。
雨を恐れるなんて。
もう雨と無心に戯れることができないなんて。
「雨に唄えば」や「あめふり」を心で口ずさんで雨にわざと打たれたり、
大好きな降り出した雨の匂いを吸いこんで味わったり、
雨に打たれいきいきと濃くなる木々の美しい緑に感動したり、
ざーっと降り込められる雨の音に
部屋の中から耳を澄ませて安心したりすることがもうできないなんて。
子供時代からずっとあった
子供時代そのものみたいな雨との親密な関係を、もう持てないなんて。
私たち命のために降ってくる一滴一滴に
私たちをあやめる毒が含まれていると
戦きながら生きていかなくてはならないなんて。
雨はいのちの根源であり
私たち一人一人の愛する風土や風景
そして人やイキモノを育む最も根源的なものであるはずなのに。
雨を恐れるなんて。
私たちを取り巻く世界と私たちのとの間には
もうみえない放射能の悪意がいつしかびっしりと入り込んで
私たちは大切な世界をもう途方もなく失ってしまったのでしょうか。
そんな風に思いたくはないけれど。雨に打たれるよろこびを取り戻せると信じたいけれど。