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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2020年7月6日付京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 自分が京都の地で詩を書くとはどういうことか。あるいは詩を書くことと、自分が生きる土地とはどう関わるのか。詩作にとって実は大切なこの問いへの一つの答えを、『詩の立会人 大野新随筆選集』(外村彰・苗村吉昭編、サンライ出版)に見つけた。没後十年を機に出版された書だ。
「詩というのは、ごんべんに寺と書きます。寺というのは、お墓を持っています。墓地のある言葉といっていいんだけれど、自分がある土地に住んでいて、その土地伝来のものを受け継ぐ何かがあります。受け継ぐというのは、必ず自分の前も、自分も含めて、死者の領域がある。」「”死者を共有する歴史をもつ”ことが詩の中にはある。」
 「墓地のある言葉」とは、戦死者の無念を共有する戦後詩を比喩すると同時に、文字通り郷土の死者の思いを継ぐ詩を含む。件(くだん)の問いへの大きなヒントだ。
 京滋に深いゆかりのある大野氏は、類稀(たぐいまれ)な比喩で人間の実存を鮮やかに言語化した。本書は郷土と同時代の詩人たちの在りし日の姿を、詩人の筆力で生き生きと描き出す。友愛と畏敬と追悼の思いが深められる中で明かされる、詩と土地と人の関わり。詩が土地に根づきざわめき生きていた時代の体温を、詩人の筆力が見事に伝えるのだ。
 ちなみに一九七七年の詩集『家』(永井出版企画、京滋で初のH氏賞)は、大学入学後、私が京都で初めて買った詩集。御子息の事故死による喪失感に、琵琶湖の気配を映り込ませ、生死の真相を隠喩で鋭く捉えた。琵琶湖大橋を渡る時、私の脳裏にいつも同詩集の詩「見しらぬ挨拶」が閃(ひらめ)く。
「わたしは昨夜/ふか酒のあと/大声を発して町をはしった/びわ湖がのぞめる陸橋のたかみまで/見しらぬ車に挨拶しながらはしった/大橋のイメージが/点灯で浮く/あのながい寝台めがけて飛んだ/抛物線をゆっくり/身ぐるみはがされて/おちた/はだかの妻がいた」
 柴田三吉『桃源』(ジャンクション・ハーベスト)は、亡き母を看取(みと)るまでの介護の日々から生まれた。死にゆく母との時間を、詩の言葉で愛おしく抱くように描く。鉤括弧(かぎかっこ)のない母と息子の会話は独白のようだが、別れの時間の中の何気ない一言もまさに詩の一行だったのだ。詩作によって作者は現実の労苦を超え、桃源郷のように甘やかな母との時間をくぐった。
「ふっと息を吐く/しばらくして/思い出したように息を吸う//さらに間遠になっていく//まぶたは開いたままだが/もう この世を見ていない//やがて息が消える/息をすることを忘れたように」「いつのまにかまぶたを閉じていて/細い切れ目に/一粒の涙がにじんでいる//背後の視線をさえぎり/わたしはいのちのしずくを/啜る//かつて彗星が地上にもたらした/一滴の水のような」(「桃源」)
 長岡紀子『タンバリン打ち鳴らし 踊れ』(竹林館)の作者は病と闘いつつ、魂を打ち鳴らし言葉に命を吹き込む。言葉を生かし言葉に生かされる。作者の歩みは遅いからこそ、世界が詩を煌(きら)めかせる一瞬を捉えた。
「末梢神経を病んで痺れているわたしの手足は/見えない鎖で繋がれ 脚の動きを阻んで/前に進もうとする歩みを遅くする//折からの南西の風が向かいから吹いてきて/あの人の薄紅色のスカーフが/浮き上がり風に流れた/わたしの目の前で風は向きを変え高い梢に/舞うように昇る//坂の頂から下った人の姿は見失った/あるいは 消えたか/ふり返った時の瞳だけを 残して」(「スカーフが翻って」)

近刊『「毒虫」詩論序説ー声と声なき声のはざまで』のお知らせ

お知らせです。

 

私の四番目の詩論集が、来たる7月14日に上梓されます。現代詩についての論集としては、恐らく最後のものになると思います。版元、装丁、装画、作者全て女性の本です。結果的にそうなりましたが、内容からも必然だった気がします。

ご関心がありましたら、是非よろしくお願いします。多くの出会いがありますように。

(honto、Amazon楽天ブックスなどで書籍販売サイトで予約開始しました。)

 

以下は帯文、本についての情報、目次、書影のイメージです。書影は最終段階のものとは少し違います。見本が出来次第写真を差し替える予定です。

 

●帯文●
(帯文表)

深淵へと傾斜していく世界、 戦争への危機意識の下


「一匹の毒虫」


となることを

決意した詩人・河津聖恵の

渾身の評論集。

 

声と声なき声

のはざまで、

詩人とはなにかを

問い続ける。

 

(帯文裏)

どこかに光り出す詩という希望を

これからも見出していきたい。


「人間」が続く限りやがて見えてくる星座を、それらは準備するだろう。(著者)

 

●本の情報●

装丁・毛利一枝

装画・田中千智

出版社・ふらんす堂

 

●目次●

 

I 論考

1「毒虫」詩論序説―二〇一五年安保法案可決以後 

 

2どこかに美しい人と人との力はないか―五十六年後、茨木のり子を/から考える

 

3渚に立つ詩人―清田政信小論

 

4夢の死を燃やす――「黒田喜夫と南島」序論

 

金時鐘に躓く―私たちの報復と解放のための序章

 

6黒曜石の言葉の切っ先―高良留美子『女性・戦争・アジア』から鼓舞されて

 

Ⅱエッセイ

1花の姿に銀線のようなあらがいを想う――石原吉郎生誕百年

 

2 「光跡」を追う旅―2014年初冬、福岡、柳川、長崎

                 

①明滅する絶望と希望―立原道造への旅」 

 

②死の予感、詩のともしび―尹東柱への旅」

 

3 二月に煌めく双子の星

 

4「世界」の感触と動因―解体を解体する「武器」を求めて黒田喜夫を再読する

 

5共に問いかけ続けてくれる詩人―石川逸子小論

 

III書評

1 苦しみと悲しみを見据える石牟礼道子の詩性―渡辺京二『もうひとつのこの世』・『預言の悲しみ』

 

2現在の空虚に放電する荒々しい鉱脈―黒田喜夫詩文撰『燃えるキリン』

 

3「にんごの味」がみちている―『宗秋月全集』

 

4日本人が聞き届けるべき問いかけ―金時鐘『朝鮮と日本に生きる』

 

5 新たな「共同性」を希求する声―橋本シオン『これがわたしのふつうです』

 

6「世界の後の世界」の美しさを信じようー福島直哉『わたしとあなたで世界をやめてしまったこと』

 

7この青からより青なる青へー荒川源吾『歌集 青の時計』

 

8 魂深くから聞こえる月母神の声―高良留美子『その声はいまも』

 

9 危機感と絶望の中で自身の実存を守るために テンジン・ツゥンドゥ『詩文集 独りの偵察隊』

 

IV時評

1タブーと向き合えない弱さ―「表現の不自由展・その後」中止に寄せて

 

2透明な武器で撃つ―京都朝鮮学校襲撃事件を中心に

 

V しんぶん赤旗「詩壇」2018年1月〜2019年12月

 

●書影のイメージ(実際の本とはやや異なります)●

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HP「詩と絵の対話」更新

HP「詩と絵の対話」更新しました。今回のゲストは君野隆久さん。難波田史男という1974年に32歳で「この世から消えた」画家について、エッセイを書いていただきました。私は若冲の絵「芍薬群蝶図」をめぐる詩とエッセイを書いています。どうぞご高覧下さい。

https://www.shikukan.com

2020年5月18日京都新聞・「詩歌の本棚/新刊評」

 今ウイルスという極小の存在が、人と現実との関係を根本から動揺させている。詩を書く者もまた揺るがずにはいられない。だが詩を読んだり書いたりすると不思議と心は鎮まる。詩は言葉という極小のものと人との関係に重心を持つからだと気づく。恐れや不安より深い視座から状況を撃つ言葉を、詩に求めることは出来るのではないか。
 石井宏紀『聖堂』(思潮社)はずっしりとした詩の重心を感じさせる。ここにあるのは叙景詩でもあり、叙情詩でもある。自然に身を置き溢れた詩への衝動と、言葉と丁寧に関わる深い喜びが伝わって来る。情景は決して明るくはなく、死の気配さえ漂う。だがそれを貫く言葉と関わるひんやりとした喜びは、まぎれもなく生の側にある。それが現実を微かに凍らせ、詩という「異界」へ昇華させていく。どこか崩れそうな危うさも含みつつ。
「雪が降り始めた/雨の匂いをたしかに背負いながら/ひとに何を告知したいか/今天空に向って一直線に翔けていることを/悟らせようとしているのか//ナノの世界からひとの細胞の螺旋へまで/ひとつひとつ/わたしの在りようを問うのか/白さと冷たさだけを取り出して/鼻を捨て耳を捨てそして口を捨て//昨日の碧空の無用と/地上に施された色彩の無用とを/声のない白は叫んでいるのか//そして居たたまれなくなって/雲から手を放したのか」(「ゆき」全文)
「俳句でも短歌でもなく、ましてや小説でもない詩を描いてきて、不思議な異界に飛び込んだと、次第に思い始めていました。それは語彙や語彙との組み合わせ、それをさらに文章の世界に組み立てる。そして指先までの語彙の細やかなこだわりと、それなりの折り目正しさの生成までの道のりです」(あとがき)
 利岡正人『開かれた眠り』(ふらんす堂)の詩行は、時代の恐れや不安を映し出しながら、その底を這い進むように続く。出口や解放を求めてではない。未来は崩落し続け人は失業するために労働する。何も自分のものにはならず「身元不明の髑髏」となるだけだ―。厭世観や諦念が低めた位置から、可視化される風景のざらつき。言葉は自己と現実の間の亀裂を、無機的かつ繊細になぞる。この作者もまた労働の日々の底で言葉との詩的関係によって生き、生かされているのだ。
「我を忘れて けれど 何もかも忘れてという訳にはいかない/後に未練を残さぬよう 身も粉にして掘っていたが/聞いた話によると 頃合いの穴というのがあって/ひとり横たえるくらいの大きさが丁度よいと言う/ところが 私の掘る穴ときたら 地中ばかりか宙にも穿たれ/頭上のそれは仕事が終わっても私につきまとい/居場所を転々と おさらばして姿をくらますことのできる穴を/しばらく居座らせる 自宅のカレンダーや履歴書の上に」
「他のことに見向きもせず 補修作業に没頭しているうち/やがて日も暮れ 現場終わりの私の目の前にあるのは/並外れて大きい ぽっかり開いた穴 埋め合わせできぬほど/私が黙々と働くのは 腫れ物のような充実のためというより/寝るのに狭くない この身に合う底を求めて/夢中になれるくらい働かせてもらったおかげだろう/言葉も入り込める 大きさの穴ができたようだ」(「穴を掘る仕事」)
 淺山泰美のエッセイ集『京都 夢みるラビリンス』(コールサック社)は、作者の記憶がいまだ揺らめく京都を描く。時代の底で変わらぬ人や物の陰影―。詩の原像とでも言えるものが、この町には確かにいきづいている。

「二重の空虚、未曾有の自由ー『八田木枯全句集』を読む」(『ふらんす堂通信』164号)

ふらんす堂通信』164号に「二重の空虚、未曾有の自由ー『八田木枯全句集』を読む」を書いています。俳句について初めて書いた文章です。木枯俳句が明かす五七五の生命力と、十七音に絡み合う空虚の魅惑。句から想像される三島由紀夫への思いにも触れました。詩を書く人にも読んで欲しい。f:id:shikukan:20200519111238j:image

李龍徳『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』(河出書房新社)書評 2020年5月17日付「しんぶん赤旗」

 増え続ける外国人への憎悪犯罪に対し、いまだ抜本的な対策が取られない日本。その今を生きる在日三世の作家が、近未来のディストピアを生きる同世代の苦悩を、息詰まる会話と展開によって描き出す。今からほんの先の未来、特別永住者の制度は廃止され、外国人への生活保護が違法となり、公的文書での通名使用は禁止、ヘイトスピーチ解消法も廃された。つまり「排外主義者の夢は叶った」。
 二人の人物が物語を展開させる。在日の生存を守る活動を単独で模索する観念的でクールな太一と、仲間と活動し、文学と政治の間で理想を貫こうとする直情的でナイーブな李花。対照的な二人だが、アイデンティティの不安と孤独の中で世界を変えようと真摯にもがき続ける。
 親日派に共感する父への反抗心を持つ太一は、李花の設立した青年会に入るがやがて日本の選挙運動に飛び込む。だが与野党が差別政策の見返りに夫婦別姓同性婚の合法化で合意するという政治の倒錯に見切りをつけ、ある殉教的な計画を立てその「駒」を探していく。一方李花は「帰国事業」と称し会のメンバーと渡韓し、自己探求のための自給自足の生活を始めるが、近未来のかの地もレッドパージの吹き荒れる国だった―。
 様々な人物の台詞に、作者が苛酷な現代に向き合い積み重ねてきた思想が感じられる。ふと煌く言葉が突き刺ささる。
「私たちは、この虚しく苦しい世界に共に虚しく苦しめられながら、それでも共に生きてゆきましょう」「この世界の、息もたえだえに登りきった果てのその光景は、きっと美しい。共に信じよう」「差別の問題とは死なないことなんじゃないか? ひょっとして、誰も死なせないことなんじゃないのか?」
 たとえ希望はなくとも世界を変える意志は続く。意外な結末で終わるこの小説は、そう教えてくれる。ここに溢れる善き世界への痛切な思いを、今を生きる多くの人に届かせたい。

宇梶静江『大地よ!』(藤原書店)書評 2020年5月10日共同通信

八十七歳の古布絵作家・詩人が同胞への遺言として綴った自伝である。

 北海道のアイヌ集落に生まれた作者は、幼時から農業や行商に明け暮れる中、カムイ(神々)と共に生きる大人たちの姿から、民族の精神性を魂に刻まれる。だが旧土人保護法以降尊厳を根こぎにされたアイヌの生活は、戦時中さらに厳しさを増していく。昆布採り、酪農、農業と変転する暮らし。兄姉の奉公。貧しさと「イヌ」と蔑まれる差別から学校を長期欠席する子供たち。作者の中学入学は戦後20歳の時である。
 上京し結婚後始めた詩作が「内なるアイヌ」が目覚めさせた。38歳の時新聞に投書し注目される。作者は北海道から東京に移り住み出自を隠して生きる同胞へ呼びかけた。もう一度アイヌを、差別を見つめよう。連帯し誇りを取り戻し「真の解放」を求めよう―。
 その後権利獲得運動に乗り出すも、やがて壁にぶつかる。行政だけではない。どうか放っておいてという大多数の同胞に巣食う空虚だ。だが同じ空虚は自分にもあった。アイヌをテーマに出来ないまま詩作も途絶えた。
 だが63歳で古布絵と出会う。村での記憶が蘇り、アイヌの世界と創作が重なった。「アイヌはここにいるよ」という思いをフクロウの赤い目に託した。「ユーカラ」にも親しみアイヌ刺繍も織り込む。作者自身のアイヌが表現を獲得
し、ついに「大地」に立った。
 言葉が「天から零れ落ちて」きて詩作も復活する。「内なるアイヌ」が「アルラッサーオホホオ」と声をあげた。アイヌの精神性こそが「人間であることの根源から生まれてくる光」だと確信した作者は、同胞が個々に立ち上がる運動を今に至るまで実践していく。
 3.11に寄せた詩「大地よ」は「大地よ/重たかったか/痛かったか」と始まる。自然の重みと痛みへの感受性を世界はどうしたら回復できるのか。今を生きる者全てに「内なるアイヌ」は眠る。本書に響く声に耳を澄ませて、目覚めさせたい。