辺見さんや大道寺将司が青春を過ごした1960年代から70年代は、
まだ言葉が空虚でうすっぺらな記号となり果ててはいなかった。
「70年代までは、まだ言葉というものが肉や骨や血をひきずっていたのではないか。つまりこれは不正義、悪なんだということが、悪として手触り感のあるものとして認識されていた。たとえばベトナム戦争は大半の人間は悪という風に認識していた。言葉がもう少し信じられていた。」
大道寺将司もまた言葉を信じている若者でした。
言葉を信じるということは、人との連帯を信じることです。
けれど一方で自分が生きている感覚や現実から遊離すれば
言葉の観念によって
自然で内発的な感情を縛ることにもなります。
大道寺は1969年に東京の大学に進み
ベトナム戦争や日米安保に対する反対闘争に加わります。
大学では勉強会を主宰したそうです。
その時の友人が語っていました。
「靜かな話し方をする人でした。自分にごまかしのない生き方をするためだと言っていました。日本はベトナム特需によって、沖縄の犠牲の上に豊かな生活を手にしたのであり、その構造を変えなければ、反対しても嘘になる、と。」
このようなことを言う青年は恐らく今はいません。
そのように語れば、即座に冷笑されるか、
偽善者め、本当のことを言えよと「現実主義者」たちがつめよってくるでしょう。
けれど大道寺将司はまさしく言葉を信じて語り
言葉を信じて思惟したのです。
そして当時、誰もが多かれ少なかれ
世界や社会について大道寺と同じ次元で発語し思惟しうるということに
疑いをさしはさむことはなかったのです。
自己否定や自己批判はしたとしても、
言葉という、人間への根源的な信頼の次元への疑いや冷笑はなかったのです。
人間とはつきつめれば言葉によって成り立つ存在です。
言葉によってこそ他者と自己を意識し、関係を結び、何よりも思惟することができる。
そのような言葉への信頼や好奇心や畏敬の念、
そして言葉による触発がなくなれば
人間は人間であるとは言えなくなる筈。
私は何よりも今そのような「人間が消えていく事態」が起こっているようで
大変怖いと思っているのです。
今、社会は
外形だけをルールでととのえることでよかれとする社会になろうとしています。
それは実質的には
人間というものに対する探究力や敬意を失った、共同体のまさに「むくろ」でしょう。
まさしく「動物化した」社会です。
そのような社会を社会と呼ぶことだけは決してあってはならないと考えています。
話を戻します。あるいはそのような社会の形骸化の前兆だったでしょうか、
70年安保は自動延長となり、
学生運動は急速に勢いを失っていきます。
大道寺将司は成果の見えない運動に見切りを付け、
より過激な方向へと突き進んでいくことになります。
北海道の開拓の記念碑を爆破したのを皮切りに
日本によるアジア支配の記念碑を次々と爆破していきました。
そしてあの連続企業爆破事件……
しかし暴力に訴えるやり方に世間の共感は得られませんでした。
やがて社会の敵として目され、
1975年の5月、雨ふる肌寒い朝
東京の南千住の駅前で逮捕されます。
1979年東京地裁で死刑判決、
1987年最高裁で死刑が確定しました。
俳句を始めたのは逮捕されてから10年近く経ってからだそうです。次の句は逮捕された雨の冷たさの記憶にもとづくのではないか、ということです。
額衝 (ぬかづ)くや氷雨たばしる胸のうち