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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸『死と滅亡のパンセ』(一)

辺見庸さんの『死と滅亡のパンセ』(毎日新聞社)を読了しました。 Shito_2
一昨日のジジェクの言葉を借りればこの一書は、
「この世界にはうんざりしている」
という無自覚に抱き続けていた感情の実体を
私の底からあぶり出し、
知や感性のいわば「根源的なオルタナティヴ」を与えてくれた気がします。
哲学的でもあり詩的でもある詩人の言葉の力は、
外部に吸われ拡散しかけていた思考と感覚に
忘れていた重心を取り戻させてくれました。

その重心とは何か。
それは「死と滅亡」をよるべなき個として見据える立ち位置のリアルな確かさであり、
3.11以後じつは私たちに残された唯一のものである「ことば」と
それを語り書く私たちとの関係のありようを感じつくし考えつくす
問題意識の深さであり、
そしてとりわけ現在この国で語り書く者が巧みに回避し続ける
「じぶんのなかにある自己抑圧の機制との対峙」
を自他に触発するダイナミズム、強さです。
それはひとことでいえば、「言葉の重心」、あるいは「言葉という重心」でしょう。

「死と滅亡」。
それは今この国で最も自己抑圧されているテーマではないでしょうか。
3.11以後
どんな立場の言説においても自己抑圧されてしまったのは、
原発でも反反原発でもなく、
まさに「死と滅亡」への欲望であると思います。
もちろんそれはこれまでもずっと抑圧されてきた欲望でしょう。
年々増える自殺者や餓死者やうつ病患者や引きこもり者は
むしろ「死と滅亡」への欲望を募らせながら抑圧し否認してきた結果ではないでしょうか(そのために象徴化や昇華の機会を失ってきたのです)。
さらに大震災後私たちは
あのような途方もない「死と滅亡」の光景を先んじて見せつけられ
一切のことばをやすやすと失ってしまったために、
そもそも生命の欲望、蘇生の欲望のように持っていた「死と滅亡」への欲望を
むしろ深くおしころし自己規制してしまったのではないでしょうか。
それがもたらす想像力と解放感、そして言葉の力と共に。

「わたしはそれとなく待っていたのだ。いまもそれとなく待っているのかもしれない。世界のすべての、ほんとうの終わりを。目路のかぎり渺々(びょうびょう)とした無のはたてに立ってはじめて、新しい言葉──希望はほの見えてくるだろう。本書の各文章はそのような気持ちで書かれた。」(「世界の終わりと新しい言葉─あとがきの代わりに」)

ここに表現されているのは、文学的な言辞の次元にとどまらない、
すべての人間にとっての真の蘇生の境地なのです。