昨日3月10日は金子みすゞの命日でした。
そして今日は3月11日──。
一人の死をきわただせる詩人の死と
ひとりびとりの死が数としてカウントされてしまう死。
みずから意志して選びとられた一人の死と、
巨大な自然の盲目の意志にあまりに突然に生を引きちぎられたひとりびとりの死。
胸がつかれます。
昨日と今日、日付が変わって
一人の死が二万人の死になるような
あるいは二万人の死が一人の死として収まり戻るような
世界の位相の変化さえ訪れる気がします。
なぜみすゞはみずから命を絶ったのでしょうか。
夫の裏切り、夫に詩作を禁じられたこと、病をうつされたこと、あるいは亡父への思慕・・
しかし根本的には
死というものに対し生来敏感で
ひそかに憧れを抱き続けてきたということがあったのでしょう。
いずれにしても死の前日写真館で撮った写真は
死に追いつめられている表情からは遠く
むしろ不敵な幸福感さえ感じさせるのです。
3.11のとめどない悲しみを
みすゞの詩は本当に癒したのでしょうか。
あるいはみすゞの読者は
その詩を感じ取ることでどれだけ3.11を深く悲しむことが出来たでしょうか。
もし彼女の詩がなんらかの救いになったとすれば、それは、
つながりや絆の再評価というような次元でではなかったはず。
それはその詩が生と死に向き合う深さへの共鳴であり
生と死の境界のなつかしい感触を
多くの人の魂が思い出すことが出来たからではないでしょうか。
まるで生誕のごとくに。
雪
金子みすゞ
誰も知らない野の果(はて)で
青い小鳥が死にました
さむいさむいくれ方に
そのなきがらを埋めよとて
お空は雪を撒きました
ふかくふかく音もなく
人は知らねど人里の
家もおともにたちました
しろいしろい被衣(かつぎ)着て
やがてほのぼのあくる朝
空はみごとに晴れました
あをくあをくうつくしく
小(ち)さいきれいなたましひの
神さまのお國へゆくみちを
ひろくひろくあけようと