徐京植『植民地主義の暴力』で紹介されている、イタリアのユダヤ人作家プリーモ・レーヴィは、1987年、67歳で自殺をしました。
彼やツェランのように強制収容所の生き残りが自殺する例はまれではないそうです。
徐京植さんは『植民地主義の暴力』でレーヴィの気持を推測しています。
それは同じくマイノリティである徐さんが、
みずからの苦悩から、鋭く感知した真実だと思いました。
なぜレーヴィは収容所の苛酷な生存条件の下を生き延びられたか。
「生還して証言する」ためです。
収容所の外部に「きっと証言を聞いてくれる誰かが、まさに「人間」が、いるに違いないという期待が残されて」いたからです。
だから、著作活動だけでなく、収容所体験を若い世代に語り伝える活動にも熱心だった。
しかし、1980年代はドイツで歴史修正主義が主張され始める。
一般大衆の「いつまでもナチのことをいわれるのはウンザリだ」
という気持を背景として。
想像を絶する体験を語っても、もはや誰も聞いてくれなくなった。
いつしか、アウシュヴィッツの外が
シニシズムみちみちる果てのないアウシュヴィッツと化していたのです。
そしてレーヴィは、みずから命を絶った。
徐さんは、後世への孤独な意志のように囚人番号を刻んだ
レーヴィの墓石の前に立ちます。
「証人がいないのではない。証言がないのではない。「こちら側」の人々が、それを拒絶しているだけだ。グロテスクなのは「こちら側」である。私たちがいま生きているのは「人間」という理念があまねく共有された単純明快な世界ではない。断絶し、ひび割れた世界だ。それでもなお、断絶の深みから身を起こした証人たちが、「人間」の再建のために証言しているのだ。だが、「こちら側」の人々は保身や自己愛のために、浅薄さや弱さのために、想像力や共感力の欠如のために、証人たちの姿を正視せず、その声に耳を傾けようとしないのである。(中略)
彼の自殺はそもそも、不安、恐怖、失意、絶望、あるいは倦怠のゆえではなく、自己の最後の尊厳を守るための、そして「証人」としての最後の仕事をやり遂げるための、静かな選択だったのかもしれない。」
徐さんの洞察に、私は果てしなく暗い気持になるとともに、
「こちら側」(=マジョリティ)にどっぷり浸かった者たちの
グロテスクな無表情をリアルに思い出しました。
いつか、私もしていたであろう残忍な無表情を。
「自己の最後の尊厳を守るため」に
そして「「証人」として最後の仕事をやり遂げるため」に
この世から静かに消えたレーヴィのような人が
昨日も数え切れないほどいたはずです。