この本で、私がとりわけ注目するのは、
母語と母国語(=国語)とがことなる人々のこと。
在日朝鮮人の徐さんも、そうした人々の一人です
母語とは、「生まれながらに母から注ぎ込まれる言語」、
人にとってもっとも根源的な言語です。
それに対し、母国語(国語)とは、「国家が教育やメディアを通じて人民を「国民」へと造り上げる手段だといいます。
「「国民」へと造り上げる」。
この辺りは、母語と母国語が同じである日本人には
なかなか実感されにくいと思います。
国語によって支配されている、というような違和の感覚を
私もあまり感じたことがありません。
かなしいかな私もまた
「自らの言語共同体に安住し、近代の国語イデオロギーを疑ってもみない多くの人々」
の一人なのです。
しかしだからこそ、母語が必ずしも母国語ではない、という違和感は
私にとって未知で新鮮な感覚です。
小学校時代から、教科書に「国語」とあって、何の疑いも抱かなかっただろう私。
しかし考えてみれば、なんで「日本語」でなく「国語」なのか、と
鋭敏な子なら、先生に質問していたはず。
誰かしていたのでしょうか。
その時先生はなんて答えたのだろうか。
「こくご」ってなんか変な響きだなと思っていたはずですが。
日本人の私の母語も母国語も、日本語であり、
言語的マジョリティにどっぷり浸かってきたのです。
同じように母語として日本語を使いつつも
内心つねに距離を感じている人々のことなど思いも及ばなかった。
日本語とは別な言語を、あらたに身につけることが、
自分のアイデンティティの存立と深く関わっている人々がいるなんて、知らなかった。
「私には、その母語が日本の植民地支配によって力ずくで強いられた「檻」であるという考えが取り付いて離れない」
「そのため、ある対象に接し、その経験を「美しい」とか「恐ろしい」とかという言葉で表現するとき、その表現がどこまで自分自身のものであるかが疑わしい。」
「何かを感じる感性、それを表現する言語それ自体がある外的な暴力によって注入されたものだということに気づいてしまった違和感である。」
これらの徐さんの言葉を読んだだけでも、
在日朝鮮人は、言語的存在としても、大変なのだなあ、と思う。
しかし同時に
これこそ、まさに本当は詩人こそが持っているはずの危機意識じゃないか!
とハッと気づいたのです。