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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

ペシミストの勇気(二)

取り調べの将兵は
自分の訊問と鹿野の答えが行き違うのに根負けして切り出しました。
「人間的に話そう」。
このロシア語は囚人には独特のニュアンスがあったそうです。
つまりこれ以上追及しないから協力してくれ=受刑者の動向について情報を提供しろという意味です。
それに対し鹿野は言いました。
「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」。
挑発でも抗議でもなく「ありのままの事実の承認」として。
将兵は激怒しました。
しかしそれ以上どうすることもできず取り調べは打ちきられました。
けれどその後鹿野はずっと執拗な監視の下に置かれたそうです。

鹿野は、密林地帯の五列縦隊の行軍に際しても
進んで外側の列に並んだそうです。
受刑者たちはみな先を争い
安全な内側(外側に行けば行くほど足を滑らせて隊列からはみ出ればすぐさま背後の兵士に撃たれた)に入り込もうとしていたのですが。
そうした命をかえりみない行為や
先述の絶食や取り調べでの答弁は
客観的に見れば自殺行為です。
しかし鹿野にとってはひとを犠牲にしたり
自分に嘘をついたりして生き延びるよりも
先日の石原の詩にあったような自己の〈位置〉を救おうとしたのです。
そのことを指して石原は「ペシミストの勇気」と名づけています。
ペシミズムは悲観主義であり、受動的なニヒリズムであり
積極的な行為には及ばないので「勇気」と無縁のようです。、
しかし隊列の外に並ぶ、絶食をする、自分の立場を悪くする発言をするという行為は
たしかに逆説的な「勇気」ともいえます。
何かのためでもなく、何も生み出さず、むしろ自己消滅をのぞむかのような「勇気」。
しかし私には分かるような気がします。
収容所においてすべての人間性が奪われた光景を目の当たりにした中で
自分の〈位置〉を救うことだけが、唯一の救いであるということが。

「そしてこの勇気が、不特定多数の何を救うか。私は、何も救わないと考える。彼の勇気が救うのは、ただ彼一人の〈位置〉の明確さであり、この明確さだけが一切の自立への保証であり、およそペシミズムの一切の内容なのである。単独者が、単独者としての自己の位置を救う以上の祝福を、私は考えることができない。」(「ペシミストの勇気」)

石原のこの逆説的なことばはあらためて感動的だと思います。
互いが互いの加害者と化した集団の中では
鹿野の逆説的な勇気は絶対的な人間性の光であり
石原にとってどれほどの希望だったのでしょうか。
しかし一方、それだけに最後の一文には違和感を覚えます。
「単独者が、単独者としての自己の位置を救う以上の祝福を、私は考えることができない。」
これは収容所の中だけでの真実を語っているのでしょうか。
私は、石原がこの極限的な価値観が
どんな時空においても普遍的なのだと言っているようにきこえてなりません。
もちろん言述としては
「私は考えることができない」と
自分に限定しているのですが。
しかし私にはどうしても、今このときを生きている私に対しても
石原の単独者としてつかんだ真実を突き付けているように感じてしまう。
それは前述の本で辺見さんが「当事者(被害者)の重み」と名づけている
重み、重力にも近いものかもしれません。

なぜなら、私は強制収容所にいるわけでは決してないからです。
しかし、そのように抗弁していると、やがてどこか遠くから
おまえもまたみえない収容所にいるのではないか・・・
とこだまが返ってくるのがきこえてきます。
そしてそのこだまに答えられない沈黙が自分の中に拡がりだすのです。