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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

ペシミストの勇気(三)

なぜ鹿野は、自動小銃に囲まれた行進のさなか
五列縦隊の外側へとみずから進みでたのか。
みなが生き残るために内側に入り込もうとしたのに。
あるいは誰もが他人が弱った隙をついて他人の食料を奪おうとさえしていた中で
なぜみずから絶食を選んだのか。

鹿野がニーチェキルケゴールを読む哲学青年であったことや
中学時代からエスペラントを学び収容所でも読書会をみずから行っていたことや
抑留前に生まれたばかりの長男を亡くしていたことなどの
個人的な資質や状況からもその必然性は窺えます。
しかしはっきりとしたことは言えないと石原も言います。
わずかに想像できるのは次のようなことだと言います。

「彼は強制収容所という圧倒的な環境のなかで、囚人が徹頭徹尾被害的発想によって行動することにつよい疑念をもったにちがいない。被害的発想とは、囚人として管理されることへのそれであり、同囚の仕打ちにたいするそれである。彼は進んで加害者の位置に立とうとした。誰に。自分に。自分自身への加害者として。この場合の彼の発想と行動には、多分に生体実験的なニュアンスが伴う。」

「人間はなんびとを裁く資格を持っていない。なぜか。人間は本来「有罪」だからである。それが、兵役と強制労働を通じて彼が身につけた思想だったのではないか。」
                                       (「体刑と自己否定」)

これらの推測には
苦悩する信仰者としての石原の自己投影も多分に含まれているでしょう。
しかし精神的な気質が似ていた二人ですから
恐らく当たらずとも遠からずだと思います。
とりわけ被害者としての自己から離れ、加害者としての自己を発見する
という発想の転換には私も眼をひらかれる思いがしました。

つまり
五列縦隊の外側へ進み出たということは
まずは外面的には加害者(ロシア兵)の方への接近です。
そして内面的には
自分が内側にいること=外側にいる人間に対する加害、であるという意味で
加害者である自分を感じ取り
罰していくことなのです。

一見これは狂気の沙汰です。
自殺行為であるし、被害者がみずからを罰していくなんて。
罰されるのは加害者じゃないのか。
加害者を増長させるだけではないのか。
そうした疑問が出てくるのは当然です。
しかし
ひとが自分が被害者であるという意識におしつぶされそうなときに
加害者でもある自分をみすえることは
じつは大きな救いではないでしょうか。
それは何か神の視点のような明晰さ(石原のことばでは「ペシミストの明晰さ」)を
持つことです。
その視点が
加害も被害も混濁した汚辱の世界に救いもたらすことになるのではないでしょうか。

けれど今いったように、その救いだけでとどまれば
被害を与えた加害者の責任は放置されてしまいます。
加害者が何も傷つかないのに
被害者がなぜ加害者としての責任まで負わなければならないのでしょうか。

しかし石原が言っているのは
あくまでも単独者としての被害者の内的ドラマのことなのです。
けれどあえて言えば、それが内的であるからといって
現実への効力がないとは言えないのではないでしょうか。
一人の人間が被害者でもあり加害者でもあるという
魂の真実を見据える「ペシミストの明晰さ」。
それを持てば
被害者が加害者を憎悪する過程において加害者へとすりかわるという事態を避けることができるのではないでしょうか。
その結果
争いと憎しみの連鎖の歴史が
どこかで断ち切られる可能性も出てくるのではないでしょうか。
一方でそれではもちろん具体的な現実においては
加害者の責任は放置されてしまいます。
そこをどうするのかという反駁には
石原の内的ドラマの観点では答えることは出来ません。
しかし私は
ペシミストの明晰さ」は
遙かな形でではあれ、加害者の側にも影響をもたらすものではないかと、予感するのです。
鹿野のことばが取り調べの将兵の魂のどこかに、恐らく深い傷を負わせたように。
石原のすぐれたことばが、遙かな時を越えて私たちを立ち止まらせるように。