「歌」の問題であるからには、詩人も無関係ではいられないはずです。何をうたうか、というのは人の魂の問題に関わるのですから。「歌」だけは強いられてはならないと思います。ましてや起立とは。
国歌はなぜ必要なのでしょうか。国家へ忠誠を誓っていることを、相互に確認し、帰属意識や一体感を持つためでしょうか。
しかし国家自体に魅力がなければ、人は国歌を自発的に歌うことはないでしょう。ましてや起立してなど。
大震災や原発事故がもたらした未曾有の危機を、国家という共同体は回避することができなかった。いえ、今拡がりつつある危機は、むしろ国家という、中身を欠いた共同体意識が理由もなく第一義でありつづけ、市民社会が成熟しなかったことこそが、招いたものではないでしょうか。
であるならば、国家という共同体幻想はもう捨てたほうがいい。その幻想を未練がましくなぞるような歌は、うたわないほうがいい。ましてや強いられてうたうなどということはあってはならないと思います。
ましてや、ましてや起立など。
国家の危機は、国家というもの自体の危機であり、新たな共同体の創出によってしか乗り越えることはできません。
あたらしい歌を模索することが、あたらしい共同体を創造することにつながるはずです。
座って、寝そべって、しゃべって、まったく新しい未来図を描きながら決めたらいいのです。
橋下知事は、おのれの中からあふれる歌をうたったことがあるのでしょうか。
軍歌の響く暗い空の下で中也が書いた詩です。なお、この詩が書かれた1934年には、文部省に思想局が設置されました。そして「おのれの歌」が弾圧されていったのです。
詩人は辛い
私はもう歌なぞ歌はない
誰が歌なぞ歌ふものか
みんな歌なぞ聴いてはゐない
聴いてるやうなふりだけはする
みんなたヾ冷たい心を持つてゐて
歌なぞどうだつたつてかまはないのだ
それなのに聴いてるやうなふりはする
そして盛んに拍手を送る
拍手を送るからもう一つ歌はうとすると
もう沢山といつた顔
私はもう歌なぞ歌はない
こんな御都合な世の中に歌なぞ歌はない
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