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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2017年2月20日付京都新聞・詩歌の本棚/新刊評

  原発事故からもうすぐ六年。現実はあの時から何も変わらないようでいて、不可視の異化を遂げているように思う。だが異化はつねに探し当て新しい言葉で表現しようとしなければ、容易に見失われるだろう。事故は風化しつづけ、被災者の悲しみは深まっている。今密かに広がる深刻な亀裂をどのように描くべきか。
 北村真『キハーダ』(ボートハウス)は、原発事故がもたらした時間の断層の陰に、いまだ生きつづけるしかないものたちの息遣いを巧みに伝える。言葉は沈黙にとりまかれ、静寂は不穏をはらむ。京都に住む作者は何度も被災地に赴き、多くの人々の思いを受け止めた。空からの澄明な光と、人々の不在の重みを繊細に重なりあわせる言葉のすがたは、祈りそのものとしてこちらの胸を打つ。「キハーダ」とは「馬のあごの骨でこしらえた楽器」だという。
「どれだけ 風にさらせば/音の間から青空が立ちあがるのだろうか/どれくらい 打ちならせば/乾いた音はかなしみの海をわたるのだろうか//放射能に汚染され/薄暗い厩舎につながれたまま/取り残され餓死した馬//たてがみを揺らし平原を駆けることも/干し草をはみながら/夕暮れの森をながめることもなく//キハーダひとつ/口のなかに忍ばせた/馬頭の骨」(「キハーダ」)
「陽光を浴びるたび/剥しわすれたテープのかけらが/粉雪のようにきらめき/その位置にとどまっている。//大切な記憶を収めた箱のように/透明な袋に梱包された/三月十二日の朝が/配達されずに閉じ込められている。」(「朝」)

『キハーダ』とほぼ同時に出た木村孝夫『夢の壺』(土曜美術社出版販売)も、原発事故の風化に詩の言葉で静かにあらがう。散文的でもあるが、苦しむ被災者の声なき声に寄り添う姿勢が、一語一語を置き換えのきかないものにしている。表題作は、現実のような夢に落ちる不安から眠れない被災者の苦しみを描く。
仮設住宅に住んでから/毎晩のように夢の壺に落ちた//壺の中で何度ももがいて/這い上がろうとした//夢を見る時間ばかりを歩いていたのだ//あの時会った見知らぬ人は/どうしているのだろうか//それから急に眠れなくなった/夢の壺に落ちる恐怖心からだ//夢の中では私も姿形がない筈/それでも現実のような出来事に//情けない話だが/未だに睡眠導入剤が手放せない」
 金田久璋『賜物』(同)の作者は民俗学の調査研究者。その知識と経験が詩に仏教的とも言える奥行きをもたらしている。故郷若狭への思いもこもる原発批判の詩が、目を惹いた。
「水辺に写る満開の/あやかしの花の枝振りは時差を彩り/水面は一面の虚実の被膜/はなびらにしめやかに降り積もる/セシウム137・ストロンチウム90・ヨウ素131の微塵/水底に身じろぐミジンコのかそかな震えしも」(「虚実の桜」)
 田窪与思子『水中花』(ふらんす堂)の作者は神戸に生まれ、長年パリやブリュッセルで暮らし「母音の国」日本に戻った。日本の生活風景に異郷での記憶が透明に重なり合う。今ここが複数の時空へひらかれる自由と孤独。表題作で作者は、日本にいながら永遠に失われた日本の美しさを、水の中に見つめつづける。
「けれど、あゝ、水中花。/それは、百花繚乱のニッポン。/Kawaii、ニッポン、水中花。/放射能汚染水に封じ込められた、ニッポン、水中花。//蘇るのか、朽ち果てるのか……/静かにたゆたう、ニッポン、水中花。」