長谷川櫂『震災歌集』。
3.11から12日間よみつづけた短歌をまとめたもの。
「不安と混乱の日々」を、短歌という形式において発揮される
日本語の根の力、底力で受けて立った記録集です。
長谷川氏は俳人。
しかし震災の破壊を目の当たりにして生まれてきたのは短歌。
それがすごく面白い。
「そのとき、私は有楽町駅の山手線ホームにいた。高架のプラットホームは暴れ馬の背中のように震動し、周囲のビルは暴風に揉まれる椰子の木のように軋んだ。
その夜からである。荒々しいリズムで短歌が次々に湧きあがってきたのは。私は俳人だが、なぜ俳句ではなく短歌だったのか。理由はまだよくわからない。『やむにやまれぬ思い』というしかない。」(「はじめに」)
「荒々しいリズムにで短歌が次々に湧きあがってきた」。
自然の暴力によって、人間の文化や言葉の「バベルの塔」が崩れるのを目の当たりにしたことで、、
原初的な短歌の脳の部位が刺激されたのでしょうか。
それはきっと、かつてそこから挽歌や相聞歌が生まれてきた部位。
短歌とは、叫びに近い言語野の部分から生まれるものなのでしょうか。
だからなのか、いくつもの歌にはおのずと神話的なイメージも呼び起こされています。
とりわけ原発の歌に。
(短歌の著作権については分からないので、引用は少しだけにします)
「その母を焼き死なしめし迦具土の禍々(まがまが)つ火の裔(すえ)ぞ原発」
また首相や閣僚をきちんと名指しで批判しているのもいい。
「うったえる」という原義を持つという歌の本領発揮ですね。
こういうのを、俳句でやると川柳になってしまうのではないでしょうか。
(時実新子さんの『わが阪神大震災』は素晴らしかった。)
そして恐らく短歌だから
無数の死者と生者の代わりにうったえるという壮大なスケールが生まれたのではないでしょうか。
「かりそめに死者二万人などといふなかれ親あり子ありはらからあるを」
「みちみてる嘆きの声のその中に今生まれたる赤子の声きこゆ」
うたの古代に根を下ろした日本語に、喪の灯は美しく揺らぎ、蘇生への意志が煌めいています。