サンデルの問いかけは、
いずれも単刀直入。そのものズバリ。
急所を衝くというか、大胆です。
それは、十全に答えが準備されているからでしょう。
たとえば「愛国心とは何か」。
私たち日本人には
かなり痛い問いではないでしょうか。
少なくとも私はそうです。
たとえていえば
いつも日の丸を見るとどこかうろたえるのと似た気持に私はなるのです。
あの薄まった血のような朱色にたいする
生理的な拒否反応のように小さく動揺する。
「愛国心」にはそんな痛みが走る。
余談ですが
最近、私の家の近くにあるアパートの
ある部屋の窓に
日の丸が内側から掲げられ始めました。
住人が変わったのでしょうか。
それとも・・。
最近気づいたのです。
掲揚しているのか、それともカーテン代わりなのか
誰が住んでいるのかも分かりません。
(推測するに一人暮らしの若い男性でしょうか)
夜通りがかると
内側から黄色い光に照らし出された日の丸は
まことに不気味です。
まるで亡霊が住んでいるみたいです。
「愛国心は、大いに議論のある道徳的心情だ。国家への愛は批判の入り込む隙のない美徳だと見る人もいれば、盲目的従順、ショーヴィニズム(狂信的愛国心)、戦争の根源と見る人もいる。われわれが問うのは、もっと個別の問題だ。国民同士はたがいに、他国民に対する義務よりも大きな責務を負っているのだろうか? もし負っているとすれば、その義務は合意にのみに基づいて説明できるだろうか?」
例えば
外国で日本人が災害に遭ったとして
私たちはその国の他の人々ではなく
日本人を救出することに関心を向けます。
それは、国家のエゴでしょうか?
国内の外国人が社会福祉の対象にされるのを
嫌がる人がいます。
しかしどうして私たちは
同国人の困窮者により多くの責任を負うのでしょうか?
「この区別は道徳的に擁護できるだろうか?」
「そもそも国境の持つ道徳的異議は何だろうか?」
それらの問いには確かに、
イエスという言うべき根拠がある、
とサンデルは言います。
ここの議論はこみいっていて難しいですが
しかし、イエスと言うためには
条件があるのです。
私たちが道徳的行為者である必要があるのです。
自国民の福祉に特別な責任を負うためには
私たちが共同体の中での自己の位置づけを模索しながら
人格の物語を生きていることが
必要なのだ、とサンデルは言います。
けれど、もし私たちがそのような道徳的行為者であるならば
私たちは、それぞれの共同体の中での生の「物語」が
自国民だけでなく自国民以外の物語とも
含み含まれる関係にあることを、必ず知っているはずです。
それがこの問いに答えるサンデルの論理です。