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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸『眼の海』(二)

レクイエム。挽歌。
それは、おのずからうたわれるものであり、
悼もうとする思いこそが詩を詩として輝かせ、また翳らせるのではないでしょうか。

詩の本質にはたしかに挽歌の衝動があると思います。
悼む力によってこそ
この世の秩序を突き抜ける、あるいは解体する
宇宙的とさえいえる高さと深さのメタファーやイメージを獲得しうるのだと思います。

しかし、悼むことは難しいものです。
なぜなら私たちは生きているから。
生きることとは死を否定することなのだから。
それに対し、悼むことはむしろ死を受容することで、
自分を壊し、他者だけでなくこの世に拠って立つ自分をも
みずから喪っていくことなのでしょう。

『眼の海』を読みながら次のようなことを考えていました。
ことばという「生きる力に拠ってしまうもの」
あるいは「生者の権力の下にあるもの」によって
無と有のへりにそっといきづく死者のために何ができるのか。
喪った者をことばによって蘇らせたいという欲望は
悼むこととは真逆ではないのか。
死者は生者がどうあがいても蘇らないのではないか。
むしろ死者は生者の欲望にふたたびころされていくのではないか。
だから生者のことばの秩序の中に引き入れることはできないし
してはいけないのではないか。
少なくとも死者の側はそれをのぞんではいないのではないか──。

『眼の海』の詩篇には
死者には、有と無のへりに静かに
有と無のあわいにある「いのちなきいのち」として在ってほしい、
という願いがこめられています。
永遠のむくろとして藻のように揺らめくという死者たちの生の
その揺らめきに「わたし」は耳を澄ませて共振したい、
そしてその共振のままにことばを紡ぎ出したい、
かれらが漂着した浜に吹く風にたちまじりたい、
かれらの眼に口に手に花を吹き寄せたい、海の底に繁茂する死者の枝をあやしたい──。
この詩集では
「わたし」は「わたし」の散逸として
「ばらけた莢?(がまずみ)の赤い実のようなことば」を
手放していこうとしています。
その願いの中から
死者の海は眼の奥に始まったのです。それがこの詩集の発端だと言えるでしょう。
そして「わたし」は入江そのものになり
永遠に終わらない日の暮れを
死者の方へ暮れていくことを試み続けるのです。
死者はまだ「そこ」にいるのですから。
「わたし」の眼のおくから「死者たちの海」は
もはや世界へとふきでてしまったのですから。
この詩集で「わたし」が「とぎれなく終わっていく」運動としての詩は
まるでいのちのように終わろうとして終わりえず、むしろ宇宙のように深化していくのです。

矯めなおしにきたのではないだろう
試しにきたのでもないだろう
罰しにきたのでもないだろう
莢?の赤い実のほかは
一個の浮標(ブイ)もない
あなた 眼のおくの海

あなたはきたるべきことば
繋辞(コプラ)のない きたるべきことば
もう集束しはしない
ばらけた莢?の赤い実のようなことばよ

わたしはずっと暮れていくだろう
繋辞のない
切れた数珠のような
きたるべきことばを
ぽろぽろともちい
わたしの死者たちが棲まう
あなた 眼のおくの海にむかって
とぎれなく
終わっていくだろう
                                   (「眼のおくの海──きたるべきことば」部分)

わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統べない かれやかのじょのことばを
百年かけて
海とその影から掬(すく)え
砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ
水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ
夜ふけの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ
どうかひとりでうたえ
浜菊はまだ咲くな
畔唐菜(アゼトウナ)はまだ悼むな
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけのふさわしいことばが
あてがわれるまで
                (「死者にことばをあてがえ」全文)