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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

血、フェイク、他者の欲望

昨日は、夜も遅く疲労した頭で書いたせいか
「セゼールの言葉は
流れ出た血という究極のすがたとしての自由がある。
流れ出た血という形でしか自由を与えられなかった奴隷たち」
など、まがまがしいことを
思わず綴っていました。
あとで色々変なイメージ(三島由紀夫の作品で読んだイメージとか)が
自分の無意識にあふれてきたようで
ちょっと気分が悪いです。

最近は色々連鎖していくのです(さらさらとした透明な血のように?)
現代詩手帖」7月号の詩集評の渡辺玄英さんの文章にも
「血」とあったのにちょっと驚きました。

話の枕として、
昨年のベネチア・ビエンナーレのメキシコ館に展示されたという
社会派の作品の話題がとりあげられています。

「メキシコと米国の国境付近では様々なトラブルで治安が悪化し、ここ数年で犠牲者は七千人にものぼるという。展示会場には壁一面に旗や布が貼りめぐらされ、それらは犠牲者の血で染め上げられていたというのだ。また、犠牲者の埋葬土を塗りこめた壁があり、さらに会場の床をモップ掛けするパフォーマンスに使われる水には犠牲者の血が入れられていたらしい。確かに異様な空間になっていただろうことは想像に難くない。」

うーん、本当に生々しい展示会場だったのでしょうね。
恐らく喪の黒を基調とした部屋で、灯りも落とされていて・・・
そうすると血の赤はより黒ずんでみえていて・・・

しかしたしかにそれは黒い光を発していたことでしょう。

展覧会の解説文に「犠牲者の血が使われている」と書かれていたのだろうと
渡辺さんは推測します。
しかしもちろんその文章が嘘であることも
可能性がないわけではない、といいます。

「『犠牲者の血』という情報=物語が感動を保証しているならば、その情報=物語がありさえすれば、同様の作品効果は得られるのだろうか。(中略)おそらくだが、考えれば考えるほど、今のわたしたちは与えられる情報=物語を素朴に信じたり、判定したりすることが困難になっているのだ。もしも、テレサ・マルゴレス作品の会場の出口に「犠牲者の血はフェイクです」と書かれていたとしても驚けない。さらに、その次の「フェイクということもフェイクです」と表示されていたとしても。そんな地点に今の日本のわたしたちはいるのではないか。際限なく繰り返しても結局真偽は宙吊りにされるしかないわけで、物語の真実を判定する超越した視座はどこにも存在できない。」

以上のような渡辺さんの文脈は
いわばこのブログでも先日論議があった「相対主義」vs「絶対主義」に
つながっていくものです。
ただラストで
「であるなら、制度を揺るがし続けるにはどうすればいいのだろうか。当然、簡単には答えは出せないわけだが、いまここで言えることは、制度の内部にありながら内側から食い破るような運動をコトバが演じられないか、ということだ。はたしてそんなことが可能なのか。」
と詩へのかすかな希望を投げかけているのに注目しました。

ここで注意したいのは、
「制度の内部にありながら内側から食い破るような運動をコトバが演じられないか
というところにある
コトバの演技として制度を食い破るというそのこと自体の演技=フェイク性
です。
つまり、渡辺さんはその前までは
本物の血もフェイクである→そのフェイクもフェイクである→すべてがフェイクであるといういわば絶対的相対主義にも行きかねないようにも見えたのですが、
このラストでは
そこまで来てしまったフェイクの力による
制度への逆説的な力へ一抹の希望を託しているのです。
それは
すべてがフェイクである→すべてがフェイクであるから、すべてがフェイクであるとも言えない
というように
相対主義をふりすてる方向へ一歩踏み込んでいるのではないでしょうか。

フェイクといえば先日ここでも取り上げた辺見庸さんの文章を思い出しました。

「『ニセといってもニセアカシアじしんに罪はないのよ。想像妊娠に悪意がないように』。だが、フェイクをこしらえる者には責任がある、とでもいいたげだった。そのことを近ごろしきりにおもいだす。もしも、いま眼に見え、耳に聞こえているものを、現にそこにそのように在る、と赤子のようにうたがわないでいられたら、苦悩がないという意味あいでは大いなる幸せであるとともに、思惟することを課せられた人としてはたとえようもない不幸である。」

つまりはフェイクという意識を持つことは
今のフェイクだらけの世の中にはただひたすら不幸だということです。
気づき、思惟してしまう者には、とめどない不幸が始まるのです。

しかし私たちには

すべてがフェイクである→すべてがフェイクであるから、すべてがフェイクであるとも言えない

という論理の極まりにしか救いはないのでしょうか。
今私にただひとつ思い浮かぶのは
「自分の欲望は他者の欲望である」というラカンのコトバ。
例えば展示された血をまえにして
私が共感し敬愛する人がうちふるえていたらどうでしょう。
その血がどんなフェイクな色をしていたとしても
私は本物として感受するはずだと思うのです。