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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

金時鐘『失くした季節』(四)

昨日は作品「蒼い空の芯で」について書きました。P3260028
この作品の主体「声を持たないぼく」とは一体誰なのか。
色々考えさせられます。

それは人間ではないのではないか、と感じています。
人間以下としてしか認められていない存在。
声を奪った力ある者に抑圧された虫のような存在。
ものをいえばくちびるも蒼ざめる透明な氷がはりつめる世界の底で
この社会の監視カメラが疑わしそうに眺めやる無縁の羽虫たち。
もちろんカメラはきちんと身体はとらえている。
そして小さな身体に合わせて小さく心を収めていくように、と
黒い無の目の照準をしぼっているのです。

牽強付会かもしれませんが
この詩が描くのは、今この国のあらゆるところで破壊されようとしている
人間としてのアイデンティティの姿だ、と言ってみたい気がします。
私たちはそれを本来豊かに複雑に抱え持っているはずでした。

先日引用した金氏のエッセイから繰り返せば、
「人の思いや考えというものは、いかな人の目にも見えるものではない。それを可視化する。つまり目に映るように比喩を駆使して描きだすのが詩の言葉なのだ」
ということであり、
しかもそれは決して単調な喜怒哀楽であってはならないのでした。
カメラが判断できるのはただそうした「退屈至極」なものだけですが、
そしてそうではない「いかな人の目にも見えるものではない」人間性は
余計なものとしてこの社会から疑わしく排除されていく。
単調な喜怒哀楽を越えた、自分にも分からない「思いや考え」は
カメラは可視化できないし、決してしようとしない。
人間的な思いや考えを、カメラは理解できないながらも
それがこの世に可視化されてはならないと予感して、
その者の身体だけを、心もまたそこにすべてを閉じ込めるようにと可視化しつづけるのです。

私はカメラを何の比喩としたいのでしょう?

各地の繁華街や住宅地でとりつけられ続けている監視カメラでしょうか。
(この社会は暴力や事件やテロの原因をふやすことばかりしているのに?)
すべての人間のアイデンイティティを単純な喜怒哀楽にしてしまおうと
メディアや法律や教育を駆使し
私たちを自分の都合のいい単純な存在にしようとする
蒼い空の上方に棲む誰かのよどんだ目でしょうか。
しかしその者こそはアイデンティティの深い危機に陥って
空の蒼に溺れているはずです。