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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

ふたつの感想と『さらされるものとさらすものと』

このブログでも紹介したように、さる4月2日、私は近鉄八木駅前で行われた「高校授業料無償化の対象から朝鮮高級学校を除外することに反対する市民の集い」で発言させてもらいました。その時集会に参加してくれた60代の在日朝鮮人の女性の方から、次のような感想がありました。

「差別に慣れてはいけないと、日本の人たちの姿を見て思った。眠っていたものが呼び覚まされた感じだ」。

この感想を読んで、私は胸が痛みました。
ただ、励まされた、勇気づけられたというのではないからです。

この方は、差別されながらも、日本社会のせいにするのではなく、怒れる自分を、自分自身の中に深く押し込めながら、過酷な宿命と折り合いをつけてきたのでしょう。

「差別に慣れてはいけない」。「眠っていたものが呼び覚まされた」。

差別されている人が、諦めようとしていた自分自身を叱咤するこの言葉は、私につらく響きました。

また、別の在日の方からは、3月7日に出した詩人たち有志の緊急アピールに対して感想をもらいました。とりあえずの除外が決まった3月下旬にいただいた手紙の一部です。

「この度詩人達有志の緊急アピール文を発表し、又今後の方向性を話し合う貴重な場を設けてくださった事を知り、私達は非常に大きな勇気と力を得ることができました。今回衆議院審議の残念な結果に接し、日本政府に対する憤りを覚える反面、私達の力の無さを切実に感じました。」

「私達の力の無さを切実に感じました」と、なぜこの人が言わなくてはならないのでしょうか。まるで自分を責めるかのように。力の無さなんて、あたりまえです。日本社会が力を与えないのですから。
 
 今金時鐘さんの『さらされるものとさらすものを』を読み返しています。1975年の本ですが、集会の感想をいただいた方々の心情は、この時点での(そして今もなおそうであるはずの)時鐘さんの心情と、決して遠くはないはずです。

「つまり、在日朝鮮人の集団の中にも、朝鮮を創造するという意欲が相対的に減衰している。もしくは、いかにすれば朝鮮人でありうるか、ありうる朝鮮人とは自己にとってなんであるか、そういう問いかけがなくなっている。だから、総体的な古ぼけた朝鮮、感性的な朝鮮もしくは心情的な朝鮮でしかない。こういう中で、私たちは日本人にだけ正当論をふりかざしていく。──こういうことを、朝鮮人のもつ正当さ故に、見逃しているとしたら、それこそ没倫理というほかありません。「在日」を生きる自己が、すでに一つの「朝鮮」であることを自覚し、少なくとも「在日」世代の負い目を日本での生活のせいにしない意志力こそ、必要です。」(「朝鮮人の人間としての復元」)

 私もまた一日本人であるならば、かりにも日本人である自分について、朝鮮人との関係性において、かれらの言葉を鏡として内省してみなくてはならないと思います。それが言葉をも魂をも、より深く人間的なものに近づけるはずですから。