昨年出た、精神医学者でもある著者による、渾身のフィールドワーク。
そう言ってしまえば簡単ですが
しかしすべての言葉が
私の聞きたかった、知りたかった深さにあるもので、本当に感銘を受けました。
この本にみちみちる
証言、事実、そしてそれらに対する著者の思いと分析が
人間の魂のもちうる深さを
私の中にもひらいてくれたようです。
野田さんは2006年秋から二年間にわたって
日中戦争時に強制連行された男性たちと
性的暴力を受けた女性たち、
つまり、年老いた中国人被害者たちを訪ねました。
この本は、かれらによって今もなお現在のものとして語られた
「虜囚の記憶」と
現在の生々しい苦しみを伝える貴重な一書であり
その苦しみに寄り添い続ける著者の魂の記録です。
同じ女性として
とりわけ性暴力の被害者の女性たちの運命についての叙述は
私自身がまるでそこに居合わせているかのようにさえ感じました。
殺気だった日本兵のサーベルや軍靴の音さえ
まじかで聞こえた気がします。
けれど強制連行された人々と性暴力被害者の痛みと苦しみは
やはり想像を絶するものです。
閃光を目にしながら
そこにある悲鳴が聞こえないように・・・。
そう、どんなに私たちが戦争被害者の苦悩に聞き入っても
そこにある魂の阿鼻叫喚を私たちは本当には聞くことはできない。
けれど私たちは聞き入らなくてはならないでしょう。なぜなら
「一人ひとりに日本拉致が変えた人生がある。中国大陸から東海を渡って連れて来られ、生き残って帰還した永い旅路がある。それから虜囚の体験にうなされながら、生き抜いた戦後の歳月がある。
加害者は謝り、加害の政府は事実を調査して謝罪し、加害の政府を支えている人びとは彼ら一人ひとりの人生に聞きいるべきでないか。詳しく聞いて、その後に人間の無慚に沈黙する。知りぬいて後の沈黙こそが、生き残った人への対話である。日本の裁判所も、一九七二年の日中共同声明によってカネの請求権が放棄されていると主張するのなら、せめて謝罪を求める判決文を出すべきではないか。そこから被害者と加害企業、中国市民と日本市民の対話が始まる。」
「日本拉致」という言葉が鮮烈です
中国にも「拉致被害者の会」が存在することを、私たちは知りません。
「はじめに」で触れられているように
北朝鮮から帰国した拉致被害者たちが
彼地で生き抜いた歳月を知ろうともしません。
日本はたとえ金銭的に可能であっても
戦争への反省が社会全体で行われたドイツと同じようには
戦後補償はできない、と野田さんはいいます。
「いかに迂遠に思えても、知ること、伝えること、教育することの大きな変化のなかでしか、戦争反省は進まない。」