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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「詩と思想」9月号に公開座談会「ラクダが針の穴を通るとき―3.11後の時代と女性の言葉」が掲載されました

詩と思想」9月号に、5月16日にキャンパスプラザ京都で行われた、

公開座談会「ラクダが針の穴を通るとき―3.11後の時代と女性の言葉」

の内容が掲載されています。

原発事故後、

この国では美しい自然と社会の構造と人の心に、

無数の針の穴が空きました。

無痛でありながら一度自覚すれば、

それは胸を永遠のようにつらぬきつづける。

今もさらに針はふえ、無慈悲さと鋭さをましている。

何ができるのか。

痛みについて語り合い、痛みをとおして連帯するしかないのだと思います。

このトークからもう三ヶ月以上の時が経ちました。

もう遙かな過去のような気もしますが、

こうして活字となったものを読むと

あらためてあの時の時空が明滅します。

三人のパネリストと五十名強の参加者は

たしかにひととき、

人間と言葉の尊厳をないがしろにしてやまないこの国の片隅で、

言葉という存在を信じてかたりあったのです。

私自身はこの座談会のなかで、

「声の道」という希望のタームを見出しました。

それが岡島さんに引き継がれ、中村さんにも響いていく展開となっています。

多くの方々にぜひ読んで頂きたいと思います。

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『奪われた野にも春は来るか 鄭周河写真展の記録』(高文研)が刊行されました

このたび、

『奪われた野にも春は来るか 鄭周河写真展の記録』(高文研)

が刊行されました。

本書は3.11直後から福島の原発被災地で風景写真を撮り続けた韓国の写真家・鄭周河さんの、

日本各地で開催された写真展でのトークセッションの全記録を収録したものです。

タイトルの「奪われた野にも春は来るか」は、植民地下朝鮮の詩人、李相和の詩から取られました。

鄭さんの写真(口絵に一部掲載)は、植民地となった朝鮮と放射能によって無人になった福島の土地が、オーバーラップする思いで写されています。

それらの写真から触発されて各地で生まれた言葉は、それぞれの固有の時空と五感から語られ、また他者からの問いかけに応答するという姿勢のもとに語られています。この本には従来の議論にはないリアリティと新鮮さがあり、多くの共感の輪を拡げていく可能性があると信じます。

今も進行中の原発事故を、多くの人がみずから忘却しようとしているように思えます。

しかし私たちは今も確実に奪われ続けている。

そのことを否認し続けることによって、さらに奪われていくことになるでしょう。

私たちがしなくてはならないのは、

奪われた他者たちの痛みに想いを馳せることによって、

奪われていく自分の足下の痛みを自覚してそこに向き合い、

その痛みの中から他者へ繋がっていく方途を見出すことではないでしょうか。

この一書は、「苦痛の連帯」は可能か、という問いかけを総がかりで訴えています。

どうか今苦しむ多くのたましいに届きますように。

  

なお私も京都でのトークに参加しています。

その時の発言とこの展覧会に寄せた詩「夏の花」が第6章に収録されています。

アマゾン注文ページ

高文研注文ページ

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7月20日付京都新聞 詩歌の本棚/新刊評

「詩人としての尹は、彼の詩よりもさらに詩であった。そして尹の詩は尹自身よりもさらに詩人であった」。今年二月十四日に同志社大学で行われた、尹東柱(ユンドンジュ)七十周忌の記念式典で、韓国の詩人高銀(コウン)が語った言葉。治安維持法下で危険を顧みずハングルで詩を書き続けた尹は、まさに詩を生きた人だ。尹の詩は、獄死に至るまでの苦しみの中から、つねに天を仰ぎ見た詩人の魂そのものだ。

尹東柱詩集 空と風と星と詩』(上野都訳、コールサック社)は、女性詩人による新訳。『空と…』の訳詩集は何冊も出ているが、上野氏は「尹東柱の詩が好きだ」という一言で翻訳を始めた。氏の訳は、現代語的で柔らかく透明感がある。抵抗の詩人と言われる尹の、新たな姿を見るようだ。空と星と交わる清冽な樹木としての詩人の、風に吹かれる樹木の痛みとしての詩―。

「召される日まで天を仰ぎ/いかなる恥もなさぬことを、/一葉(ひとは)に立つ風にも/わたしは心を痛めた/星をうたう心で/すべての滅びゆくものを慈(いつく)しまねば/そしてわたしに与えられた道を/歩いてゆかねばならない。//今夜も風が星にかすれて光る。」(「序詩」) 

江口節『果樹園まで』(同)は、前半で果実の存在のたしかさを、後半はひとの存在の危うさを、巧みな構成と展開で描き出す。なぜ果実か。それは作者が「内側で熟れていくおもみ」と「内側から充ちていくもののたしかさ」を、渇望するからだ。現実の希薄さと未来の不安が増し続ける中で、作者にとって詩は生きることそのものであり、熟れていく生がおのずと語り出す言葉である。

「内側で/熟れていくおもみに耐えかねて/口は/おのずから開きはじめる//おずおずと/ついには 十字のかたちで/完熟の/みずみずしく あまく//ひりひりと血の色の/あふれでる一言一言を/ゆびさきにはりつく薄皮で/ようやく つないで//そのとき/もう ことばではないのかもしれない/とろとろ/口の中で 果肉がくずれて」(「無花果」)

 松本衆司『涙腺の蟻』(ひかり企画)は、「存在の悲しみ」のあふれる心から、「いきいきと出口に向かって」「這い上がって」きた蟻=言葉たちの軌跡だ。「悲しみ」「幸福」「いのち」「涙」は、ややもすれば通俗的になりがちな言葉だが、作者はむしろそうした言葉をとおし、市井を生きる人間の体温を伝えようとする。深夜耳にする電車の音にも、亡父の生の痛みをいまだ聴取するのだ。

「森閑とした/死者の時間だ/電車が駅のホームに到着し/また次の駅に向けて発車する/枕木をかみしめる/音を刻んで/生きてきた人の/帰路//寒い冬の/夜の底で/なお暗い孤独が/沈黙している/そして、父の儚さがぼくに/轟いている」(「帰路」)

 高階杞一『水の町』(澪標)は、二十四篇中十三篇に「水」が出てくる。「あとがき」によれば、意図したわけではなく、おのずと「水」の詩集になったという。「無意識のうちにも時の流れを水の流れに重ねていたのかもしれない」。この詩集の平易さの奥には、不安と悲しみの濃厚な気配がある。霧が立ちこめ、雨が降り続く尹東柱の立教時代の詩作品と、遙かに繋がる「水」なのか。

「投げた石が/水に落ちて/波紋が広がっていく/石はとっくに水の底に消えたのに/石の声は/遠くへ/遠くへ伝わっていく//わたしのここにこうしてあったことも/そんなふうに/伝わっていくのでしょうか/いつか/誰かの岸辺に/小さな波紋となって」(「波紋」)

書評:『前夜』(黄英治(ファン・ヨンチ)著、コールサック社)

息もつかず一気に読んだ。

2009年12月4日に起こった、在特会による京都朝鮮初級学校襲撃事件が象徴するよに、

昨今日本の各地で、ヘイトクライムが勃発している。

この本は、ヘイトに加担してしまう元在日韓国人の若者と、

ヘイトに挑む在日朝鮮人の若者の

二人の主人公の切迫した心理過程を、刻々と描き出していく。

ここに充ちるのはタイトル通り「前夜」だ。

物語は、「ファシズム前夜」から「対話の前夜」への架け橋を、模索していく。

読みながら、明けない夜の分厚い闇を、あらためて突きつけられた。

それは新鮮でもあり、息苦しさでもあった。

そこをくぐり抜けていくような気分になった。

主人公の一人ポンチャンは、レイシストたちに一人立ち向かう在日朝鮮人

その過去から次々押し寄せる未来の悪夢に立ちすくむ。

対決の朝、

ヘイトクライムの行き着く果ては、アウシュヴィッツであるという予感に襲われる。

「電車は荒川鉄橋の上に停車した。水面に朝の光が射してキラキラしていた。夢の影が、水面の煌めきを、ナチスの反ユダヤ暴動・水晶の夜の連想へと誘った。」

「収容所をつくった連中も、ZTグループも、そんなことはお見通しだ。奴らはおれをあざ笑いながら、楽しそうにみな殺しを叫んでいる。収容所の目的は絶滅だ。夢はまだ終わらなかった。スンヂャはまだ生きていた。いつでも殺せる者として。死が犠牲にならない死に直面して……。そんな例外状態で生きねばならぬ存在として、鉄条網の向こうで叫んでいた。」

これは私自身が、

かつて在特会の初級学校襲撃事件の動画を見て抱いた、

絶望的な未来への予感そのものである。

さらに当事者である作者の言葉は、肉体的なおののきをまとっている。

襲撃のシーンだけでなく、

そこに至る心理のリアリティに、私の胸は締めつけられていった。

ついに「自爆」を覚悟して乗った車内―。

「ボンチャンはどうしようもない疎外感に襲われた。車内の白々しいほどに平和な空気。ここにおれの居場所がない。ここにいてはいけない存在として、存在していることの寄る辺なさ。この人たちはZTグループを知っているだろうか? ヘイトに苦しめられている朝鮮人がいる。朝鮮学校の生徒たちは政府と行政に公然と差別され、その親たちは子どもを人質に取られて、毎日頭の上にナイフを吊り下げられているような恐怖のなかで暮らしている。そんな朝鮮人がいることをどう思うだろうか? いや関係があっても、ないように暮らせる人たちのなかで生きなければならないことの悲嘆……。」

このようなボンチャンの行き場のない「絶望」に対し、

作者が突きつけてみせた「希望」のありかは、

レイシストの一員となってしまったもう一人の若者トモヒロの「絶望」である。

自分が在日韓国人であると知って陥った絶望から逃れるために、

「日本人であることを証明するために」と夢遊病のようにヘイト集団に吸い寄せられ、

ヘイトの快楽を知ってしまうトモヒロ。

「〈菊花逍遥〉の朝、浩規は迷っていた。確かに定例会での菊花の話に揺さぶられた。「日本人であることの証明」「無償の行為」「生の拡充」とかいう言葉に惹かれた。自分のなかにたまり続けている爆発寸前の不満や不安、焦燥を払いのけて、生を拡充させたい、だが、「ゲリラ的報復戦」などという、自分の気質と隔たった活動への怯えがあった。」

「暴力への怯えは、高二のときの福田からの暴力で核となり、父に側頭部を蹴られて脳震盪(しんとう)を起こしたことで増幅され、意識と躰の奥深くに巣食っていた。けれど浩規は、メールを受け取ったとき、行くつもりになっていたことを記憶していた。どんなことでも、呼びかけられるのは嬉しかった。」

「警視庁の腕章をつけた私服刑事が、ちょっと菊花さん、と止めに入る。なんだ、これは道路交通法違反だろ! この店を営業停止にしろ! まあ、まあ菊花さん。これ以上やると、うちらも対応しなきゃならんので、これくらいに、ね。

 浩規の怯懦(きょうだ)が、菊花への驚きと羨望に変わる。何をやってもいいんだ!」

「生まれて初めての快感が浩規の全身を刺激していた。この快感は自慰の射精の瞬間、脱糞するときの解放感よりもすごい。あいつらおれに怯えている。夜勤ラインの無力感。ヒステリー青線正社員の八つ当たり。人事の勝手な要求。卑屈な就職活動。親父への嘲り。お袋の愚痴。そんなものは無意味だ! 忘れろ! おれ自身が生きるために。奴らを、殺せ! 殴り殺せ! みな殺しにしろ!」

「『殺』という文字が『快』という文字と絡み合い、なんとも言えない形になって、頭の中をかき回して、全身を刺激しながら駆け巡っている。そうだ、おれは日本人だ! だから、朝鮮人を憎むんだ! 正義の行動! 生の拡充! 快感!」

この国の歴史と現在から、同じ闇の重さを背負わせられている二人。

だがやがてかれらは両極の方向から

ついに同じ前夜の底で巡り会うのだ。

物語は、トモヒロとボンチャンの父親との対話の始まりで終わるが、

作者は「希望」をあえて読者の想像に託している。

「前夜」はまだ始まったばかりであり、これから共に作っていくものだと。

「物語を紡いでいるあいだじゅう、窒息しそうな恐怖に襲われ続けていた。いったん物語を閉じたいまも、ますます息苦しさはつのっている。有毒ガスの濃度はあがり続けている。だからこそ、物語に終わりはない。また私が書くかも知れない。いやカナリアになった誰かが、書いてくれること、それを心から願っている。」(「あとがき」)

切れかけながら闇をようやくおしのけている外灯のような

生きながら死にかけている若者たちの心。

無数のそれらを星座のように繋ぐものは何か。

この一書から真剣に思いを馳せてみたい。

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「尹東柱とわたしたち・2015」のご案内

【「尹東柱とわたしたち・2015」のご案内】

尹東柱歿後70年=戦後70年」。

日本において、尹東柱を死に至らしめた時代と、

そして再び戦争の道へと踏み込もうとする今の時代を想いつつ、わたしたちはいかに歌い、語り、抗うべきか。

みなさまとともに詩に満ちた時空を過ごしたいとおもいます。どうかご参集ください。

ご予約をお待ちしております。

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   尹東柱とわたしたち・2015>

尹東柱・歿後70年

 ――“戦争”が突きつけられる今「うたう・かたる・あらがう」

日時 : 2015年 7月26日(日)午後3:00開演(受付2:30〜)

場所 : 喫茶美術館  東大阪市宝持1-2-18 

参加費: 1500円(1ドリンク付)定員50名(要予約)

予約先:喫茶美術館 ←クリック[E:shine]

プログラム

1.「うたう」・尹東柱の4つのノレ(歌曲) 

歌手 ・崔大弦(バリトン)、李明玉(ソプラノ)、姜錫子(メゾソプラノ

ピアノ・柳水香

2.「かたる」・尹東柱についての講演

・ 河津聖恵 

「ひともとの樹木のあらがい ―― 上野都訳『尹東柱詩集  空と風と星と詩』をめぐって」

・ 愛沢革

「詩による抵抗 ―― それはどのような『たたかい』だろうか」

3.「あらがう」・“戦争”が突きつけられる今、わたしたちの詩朗唱を。

 司会 ・ 丁章 出演者・5名ほど(自作詩または自選詩(1篇ずつ))

*当日は喫茶美術館のご好意で、拙著『闇より黒い光のうたを』(藤原書店)を販売させて頂けることになりました。2500円(通常2700円)です。

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『詩人会議』8月号に、詩「月桃―伊都子忌によせて」が掲載されました

『詩人会議』8月号に、詩「月桃―伊都子忌によせて」が掲載されました。

今年4月29日に京都で行われた岡部伊都子さんの命日の集いに、沖縄・竹富島から贈られた月桃の花をモチーフとしています。沖縄で自決した恋人の魂のように、岡部さんが生涯愛し続けた花でした。

月桃 ―伊都子忌によせて(前半部分)

                      

初めて見たはつ夏の花は

今は亡き人の 桜をめづる優しい遺影の前

微笑みをしずかに受けとめ俯き壺をあふれて咲きこぼれている

遙か南の島から贈られた

その人が魂に宿しつづけたという白い花房

思いの外甘い香りはなく 

咲きはじめて七年を生きているかのよう

赤らむ蕾の先は今ここの空気に触れ

可憐にとまどい黙している

花は見る者の心をのぞき込む

(私を根から慈しむ、うつぐみ魂はありますか)

亡き人自身が今摘んできた、とでもいうように

花は感情をかすかに高ぶらせ 揺れている

私の��本土�≠ェ花の��沖縄�≠ノ照らされる

(後略)

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【「闇より黒い光のうたを」書評】須藤岳史「獣性の痕跡、その先に」(「望星」6月号)

「望星」6月号(東海大学出版部)で、須藤岳史さんによる拙著『闇より黒い光のうたを』の書評が掲載されました。須藤さんのご了解を得ましたので、以下にアップいたします。

獣性の痕跡、その先に

                         須藤岳史

 本書は詩人による詩人論である。著者は伊東柱、ツェランリルケ石原吉郎中原中也宮沢賢治原民喜らをはじめとする十五人の詩人を取り上げ、彼らの生きた時代、そして運命に翻弄された生き様に寄り添いつつ、その爪痕を検証し、人間の持つ詩への根源的な希求、そして言葉の力を見出そうと試みる。

 著者は彼らを「詩獣」と呼ぶ。「うた」とは「本能的な危機意識に関わるもの」で、すぐれた詩人とは「その危機を感知し乗り越えるために、根源的な共鳴の次元で他者を求め、新たな共同性の匂いを嗅ぎ分ける獣」、また「獣性を顕在させ、人間の自由の可能性を身を挺し示すものである」と言う。詩獣たちは傷つきながらも、この世とは別の次元での輝きを言葉のうちに求めたものたちである。著者は詩人の内部に潜む獣性に焦点を当て、彼らの残した痕跡を辿る。

 プロローグで語られる、ある言葉の連なりが詩へと位相を変えていく様子、つまり「詩が立ち上がる」瞬間の詩的な描写はとても印象的である。「読むものと言葉のどちらが変化」したのかは定かではないが、「鎮まっていた紙面に身じろぎの予感」が生まれ、言葉の連なりより声が滲み出す。そしてその言葉は「私たちを絶対的な彼方へと呼ぶ」という。ここに著者は、読まれることにより生命を獲得した言葉が蠢きだすさまをありありと眼にし、その叫びを聞いている。

 井筒俊彦の主著の一つ『神秘哲学』に「神秘主義にかんするかぎり、徹底的に主観的であることこそ、かえって真に客観的である」、「いわゆる客観的態度はここでは何ものをも齎すことができない」という一節がある。ある種の対象は客観的な観察を拒む。なぜなら外から観察をすると、その生命は散逸し、死した形骸しか残らないからだと井筒は言う。

 詩もまた同じで、客観的な観察は詩に近づくどころか、その内部に宿る生命を脅かしてしまう場合がある。だから詩のなかへと自らが入っていく手法が有効となる。著者は、詩人論とは彼らの生涯よりも「現実には見えにくく歴史化されない無償の情熱」である「詩への思い」を中心とするものだと言う。そのためには書き手自身の「詩とは何か」という主観的な思考が必要となるため、執筆者自身を巻き込んでしまうという原理的な難しさが生じてしまうとも指摘する。これは井筒の神秘主義研究に関する態度と呼応する。著者は生身で詩獣とその詩に近づこうと試みる。そして自らも詩獣と化し、時空を行き来する。その道程での発見や葛藤に追従しているうちに、詩獣、詩獣と化した著者、読者自身の詩魂の影が重なりはじめ、人間が持つ、個を超えた根源的な獣性の輪郭が次第に浮かび上がってくる。そして、その先に見えるのは闇よりも黒き深淵にすら存在し輝きを放つ「希望」である。

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