#title a:before { content: url("http://www.hatena.ne.jp/users/{shikukan}/profile.gif"); }

河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2018年11月26日付「しんぶん赤旗」文化面・詩壇

「もし、あなたが、プライド守るために、その尊い拳を握ろうとしているのなら、ペンを持って握って欲しい。殴り書きから始まる詩が、確かにあるということを僕が証明していきたい。このなかなか、言うことを聞いてくれない、決して自由とは言えない身体で。」第4詩集『赤い内壁』(海棠舎)で、作者の須藤洋平氏があとがきに記した決意表明だ。
 須藤氏は1977年生まれ。「トゥレット症候群」と30年間闘ってきた。脳の神経伝達物質の異状が原因のこの病への、社会の理解は進んでいない。25歳で診断されるまで、氏はチック症状を誤解され虐めや暴力に遭うこともあった。プライドを傷つけられ死へ誘惑されつつ、生きる証として詩を書き続けた。
   冒頭の決意の背景には東日本大震災がある。南三陸町に生まれた氏は、近親者を含む多くの人の死を経験した。第二詩集で深い追悼から新たな生を模索し、第三詩集で悲しみと苦悩に再び向き合う。第四詩集で登場人物たちは皆どこか死者の気配だ。作者は死者の側に立ち、徒手空拳で生者の忘却と冷笑に立ち向かう。血や性や殺意というモチーフと文脈の飛躍と混乱から生まれる、傷ついた魂の声を上げるために。
「家畜のように辛抱強く怯えながら/破れたレースの前で歌え!/端から端まで歌え/焼けた喉の奥からどこまでも這ってくる臭い虫/さすればきっと、/カモシカも歌うだろう/みみずくを決して飛ばすな//やがて聞こえてくるだろう/やれ、乱脈した魂とやらが/糸を引く音が」(「ペンを取れ!」)
    苦悩の中で研ぎ澄ました言葉の切っ先が光る。自己を励ますことで他者を励ましている。記号性に頼りがちな現代詩に、直接性の火を鮮やかに放つ詩人だ。

私が選んだ鮎川信夫の詩2篇

「ふくい詩祭2018」のパンフレットに載った、私が選んだ鮎川信夫の詩2篇です。「死んだ男」や「アメリカ」も名作ですが、あまりよく知られていないこの2篇も素晴らしいと思います。「詩がきみを」は、シベリア抑留を体験した詩人石原吉郎の急逝に際して書かれたものです。「蹄鉄が馬を終わる」いう石原の逆説にならい、「きみが詩を」ではなく「詩がきみを」と表現しています。そのことで石原の死の本質を鋭く描き出し、石原の死を深く追悼しています。詩とは人間が主体となりうるような生易しいものではなく、みずからの発現のために人間を摩滅させ、使い尽くすものだー戦後をシベリア体験の重みに軋む驢馬のように生きた詩人の死の本質を見事に言い当てた詩です。「詩法」の「純粋で新鮮な嘘となれ」という逆説にも、同じ詩への思いがあるように思います。詩は人間がふりかざす真実など信じない、詩が宿るのはむしろ「純粋で新鮮な嘘」なのだと。そして第2連は、鮎川が孤独の中で反芻していた詩の倫理だったのではないでしょうか。

 

(1)「詩がきみをー石原吉郎の霊に」

 

あのとき

きみのいう断念の意味を

うかつにも

ぼくはとりちがえていた

生きるのを断念するのは

たやすいことだときみが言ったとき

ぼくはぼんやりしていた

断念とは

馬と蹄鉄の関係だ

と教えられても

レトリックがうまいなと思っただけで

蹄鉄が馬を終るとは

どういうことか

ついに深く考えずじまいであった

酒杯をかたむける

そのかたむけかたにも

罪びとのやさしさがあって

それがきみの作法だった

ぼくはうっとりと

自然にたいして有罪でない人間はいない

というきみの議論にききほれたものだ

きみにとって詩は

残された唯一の道だった

いつかみずからも

美しい風景になりたいという

ひたすらなねがいで

許されるかぎりどこまでも

追いもとめなければならない

断念の最後の対象だった

そしてきみが

詩を終ったと感じたのは

やわらかい手のひらで

光りのつぶをひろうように

北條や足利の美しい光景をすくってみせたときだろう

ぞっとするような詩を書き終えることで

断念の意味は果されたのだ

苦しんでまで詩を書こうとは思わない

きみにとって

もはや暁紅をかいまみるまでもなかった

死はやすらかな眠りであったろう

ぼくはきみに倣って

「きみが詩を」ではなく

詩がきみを

こんなにも早く終えたことを悲しむ

 

(2)「詩法」

 

生活とか歌にちぢこまってしまわぬ

純粋で新鮮な嘘となれ

多くの国人と語って同時に

言葉なき存在となれ

 

くるしい黙禱を

水漬く兵士の納骨堂に

きらめく感謝を

最も遠い天の梢へ

ふくい詩祭2018「荒地の詩人、鮎川信夫を現代に問う」

昨日「ふくい詩祭2018」に行き、シンポジウム「荒地の詩人、鮎川信夫を現代(いま)に問う」にパネラーとして参加しました。

 

批評家樋口良澄さんの基調講演のあと、金田久璋氏の司会のもと、正津勉氏、細見和之氏と私が、会場の樋口氏と時折対話しながら、ディスカッションしました。

 

最初金田さんから依頼された時、日本の戦後詩の大重鎮・鮎川を意識的に無意識的に敬遠してきた自分で大丈夫か?と当初ややひるんでいましたが、大変意外なことにとても楽しいひとときとなりました。

 

事前に樋口さんの著書『鮎川信夫、橋上の詩学』を読み、次第に鮎川の戦後の絶望感が自分の問題意識を包み込んで来る気がして来ていました。さらに当日の皆さんの話の熱気に加え、鮎川が「戦中手記」を療養所の病棟で書いた地であり、また彼の父母の故郷でもある福井で、土地の人として読み解かれていくのに蒙を啓かれっぱなしでした。

 

生前の鮎川と深く付き合った方々から思いもかけない人間臭いエピソードを明かされたり、次第に自分とも共通点のありそうな等身大の鮎川信夫像が私の中にたちあらわれ、壇上にいながらワクワクして来ました。

 

とくに鮎川の母親と同じ大野市出身の正津勉さんの話は、詩人のリアリティを愛情をもって立ち上げてくれました。さらに最後、会場にいらしていた鮎川のいとこさんが挨拶されたのですが、まさに写真で見た詩人を彷彿させるお顔と雰囲気で、詩人が聞いていたような錯覚さえ 覚えました。

 

鮎川信夫という詩人は、敗戦後の絶望を「荒地」という言葉の輝きを知る者たちで照らしあって生きようとした。仲間を集め、「無名にして共同なる」詩世界を拓こうとした。その思いは今生かされるはず。1986年に亡くなった鮎川の冷戦後は存在しませんが、今生きていたとしたら? 原発ナショナリズムに対して何を思い、どんな言葉を私たちに放つだろう? そんな鮎川の現代的活用法」へのヒントも語り合われたと思います。

 

今後出される会報に詳細が載る予定です。

 

現代詩のアイデンティティとしての「荒地」に立ち返り、鮎川やその他の戦後詩人に問いかけてみること。それがこれからの詩の行方に大きな糧を与えてくれるにちがいありません。

f:id:shikukan:20181119190508j:plain

2018年10月29日付しんぶん赤旗文化面「詩壇」

  岩倉文也『傾いた夜空の下で』(青土社)は、2016年から18年までに描かれた詩、ツイート、短歌を収める。「僕にとってこの本は、僕の代わりに死んでいった、言葉たちの墓標です」と作者がツイッターで述べるように、本詩集には生の危機の中で掴みとられた言葉がひしめく。絶望にあらがい生きるために記された言葉に、読者は直接身を晒すしかない。この世界の絶望に共に向き合うために。

  18、9歳頃の表題作ですでに作者は、自己と世界との関係を的確に描き出している。

「ぼくは自分の孤独を守るために/目だけをぎらぎらさせて/遠く シャッターが下ろされる音に/じっと耳を澄ましていた/濃密な土のにおい/むせ返るような街の夕焼けも/とっくに摩滅しきって今は/空にはどんな反映もない」

 高校中退以降生きるために詩を書き続けて来たという。社会からこぼれ落ちそうな不安が、思考を深め感受性を研ぎ澄ましたのだろう。やがて詩と出会い雑誌へ投稿を始め、数々の賞を受ける。

  詩の時空はどこかつねに震えている。明示はされないが、1998年福島生まれの作者が体験した3.11の記憶が、関わっている筈だ。地面と空は傾き海は恐れられ、雪降る町は廃墟のイメージだ。大震災と原発事故がもたらした故郷の喪失に、詩によって本質的に関わろうとしている。安易な希望や絶望を拒み、言葉によるひとすじの抵抗を選んだ詩人の旅を支持したい。

「ららららと雪ふる朝の国じゅうに苦痛にうめく俺がいるのか」「はるのあさ  よごれた雪をつかみとる僕らはいつもいつも祈りだ」孤独の深まりで聞いた声々に突き動かされ、さらに新たな詩に向かってほしい。

2018年10月16日付京都新聞文化面・「詩歌の本棚/新刊評」

   北原千代『須賀敦子さんへ贈る花束』(思潮社)は、イタリア文学者・エッセイスト須賀敦子氏の言葉の「息づかい」に魅了されてきた詩人による、オマージュとしてのエッセイ集。氏の言葉に作者がいかに励まされてきたかを、鼓動が聞こえるような情熱をもって語る。氏は長くイタリアで生活し、彼地の文学を訳し、人を愛おしむ珠玉のエッセイを残した。深い宗教心を持ち、本質的には詩人だった。「幼い頃須賀さんは、詩人になる他はない、と自覚していた。それからずいぶん時が経って、翻訳ではない自分の言葉を見い出したとき、独自の調べを持つ散文が声のように生まれた。」詩人同士の共鳴がこの本を生んだのだろう。今春出た、須賀氏の若き日の詩をまとめた『主よ 一羽の鳩のために』(河出書房新社も併せて読みたい。
 船田崇『あなたが流星になる前に』(書肆侃侃房)の各詩は、掌編小説のようにストーリーがあり読みやすい。だが情景はおのずと深層意識に浸され、思いがけない展開を見せる。あとがきに「もし真空に吹き込むように言葉が現れたら、それが詩であり、僕という人間の形になるのかもしれない。」とあるが、ここにある詩は確かに、作者の中の真空に降りて来た言葉で、世界の不安や悲しみに形を与えた試みなのだ。
「街道では/点々としゃがんだ子どもらが/ひたすら泥を捏ねまわしていた/花が咲いている/黄色く笑う/道端には小さな風呂桶が/気が遠くなるほど並んでいて/老人たちは各々湯に浸かりながら/眠りの中で/密かに風向きを読んでいた//北緯43度の薄い空の下/山脈の優しく/無意味な曲線が消える方角/今も純白なシーツの端に落ちたまま/浅いユメを見る貴方に/静かに震える/ヒタキの尾のような/手紙を書きたい」(「北緯43度からの手紙」)
 服部誕『三日月をけずる』(書肆山田)は、肉親の死、過去の記憶、現在の生活に詩の構成力で向き合い、現実から少しだけずれた世界を巧みに描き出す。現実をもとに言わばパラレルワールドを作り出すのだが、宙に浮いてはいない。作者の円熟した言葉の力は、作品世界を現実以上の現実として仕上げている。
 詩「轢かれた鶏」では、鶏の死骸が何台もの車に轢かれ平たくなっていくのと入れ替わるように、横断歩道に死んだ母が現れる。まるで能の橋掛かりに死者が現れるように。
「鶏が轢かれた刹那の/幻影をかき消すかのように/信号がふいに青に変わる/七七日(しじゅうくにち)を迎えた母が/手押し車を押して/横断歩道を覚束なげに渡りはじめる/ゆっくりと/遙かな彼岸に向かって//信号機は/青になったまま点滅もせずに/母が渡りきるまで/待ちつづけていた」
 また詩「淀川のうえで合図する」は、深夜阪急電鉄梅田駅から宝塚線急行と、京都線神戸線の特急が同時刻に出発することから発想された。急行に乗る作者は、並行して走る特急の窓に、どこかで見かけた男を見つける―ちょっと怖いが深い哀感のある傑作だ。
「ふうっと大きな息を吐いたその男はつと顔をあげ/虚空を見ていた目の焦点をおれに合わせる/おれたちは窓越しに互いを認めてかすかにほほ笑み/どちらからともなく空いている手をあげて/やあ、おつかれさま、と/まわりのだれにも気づかれないように合図を送る/――またいつか、おれたちの心に火が点る夜には、こうして会おうじゃないか//ひろい淀川の鉄橋のうえを三台の電車は/まだしばらくのあいだは/轟音を立てながらならんで走っている」

2018年9月18日「しんぶん赤旗」文化面・「詩壇」

  清田政信『渚に立つー沖縄・私領域からの衝迫』(共和国)が出た。清田氏は
1937年久米島生まれ。大学在学中から詩を書き始め、米軍政下の60年代から復帰後の70年代にかけ、沖縄の詩人の中で最も精力的に詩と評論を発表した。だが80年代後半病を得、今も療養を続ける。本書は80年代前後に書かれた世礼国男、伊波普猷折口信夫柳田国男等をめぐる論を中心に編まれるが、沖縄思想を論じつつ、自己と風土の間の葛藤を詩的な言葉で考察する。
  私が氏の詩集に初めて出会ったのは二年前、那覇市立図書館に立ち寄った折だ。読むとすぐに詩のはりつめた美しさに惹かれた。どの言葉も現実の不条理に抗い、身をよじり何かを訴えていた。同時にそれらは沖縄の海と律動を共にし、波に洗われたように清冽だった。
「言葉を失ったら/彼方へ眼を投げてみろ/遠い内部が泡立ち海になるとき/錘りになって沈んでいくのさ/島では地のうねりを渡って/思考が崩れる  ほら  びろう樹は/古代の風に向って畏怖におののいたぞ」(「風の覇権」)
  例えばこんな一節から、詩人の感受性がいかに沖縄の風土に育くまれたかが分かる。一方詩人が軍政下でシュールレアリズムの作風で書き始めたのは、自分の心の秩序を沖縄の現実と「同じ次元まで破壊して均衡をたもつ」ためでもあった。
  翁長知事は、本土のために一方的に犠牲を強いられ続けてきた沖縄には「魂の飢餓感」があると言った。清田氏の詩が40年以上前の過去から突きつけるのも、心にのしかかる軍政の抑圧に打ち砕かれまいとする飢餓感だ。
  沖縄には感情の歴史がある。かの地の詩人を知ることは、その深さと激しさを知ることだ。

9月3日付京都新聞文化面「詩歌の本棚/新刊評」

  國重裕『ことばの水底へ』(松籟社)は京都在住の詩人・独文学者のエッセイ集。画家鴨居玲や麻田浩、ドイツの詩人ツェランリルケ、ロマン派等における自己をめぐる思索を追う。最終章で京都ゆかりの詩人田口義弘、作家山田稔、独文学者野村修が取り上げられるが、特に田口氏を追悼する「海の想い」は印象的だ。氏と作者は海辺の光景をめぐり手紙で語り合う。「我と汝」の対話の次元で、魂の陰翳を共有していく。本書に引用された田口氏の詩「旅の収穫」は、海辺で鳥の死骸を凝視する中で、現実がヴィジョンへ変容するさまを巧みに描いた佳作。詩人は二〇〇二年に亡くなったが、詩は今も鮮やかに生きている。
「けれどあやうくそれを放りあげようとした/この私は見たのだった、いまは骨だけになった/その翼のつけねから細長い根がいく筋ものびていることに、/暗い地中で何かとつながれるための電線さながらに。/ふたたびの昇行のためのふたたびの沈降?……/私は足元に小さな窪地を作って/このみごとなオブジェをそこに横たわらせ、/砂で白くそれを覆っていった/その死骸の変容に私もささやかに協力するために、/秘密をはらむ無言の循環の一点にそれを委ねるために。」 
 鎌田東二常世の時軸』(思潮社)は宗教学者の第一詩集。学的経験にもとづく確かな足場から詩の懸崖へ言葉をさらし、常世のヴィジョンを描き出した。言葉を持ったために愛を喪失した「不生不滅」の世界で、「許されぬ闇の希望」として詩は綴られる。海、流星、稲妻、北方、舟、鏡、指、虹、少年の死といったイメージが反復され、ヴィジョンは世界観となり立ち上がる。これは作者の自己救済の詩集でもあるのだろう。
「蛸となって海を見ていた。打ち寄せる波吸い込まれる渦。世界創生の始まりの時軸。凧となって見ていたこの惑星の消滅。譬えようのない美しい爆発繚乱の渦。逃げることのできない存在世界多様消滅。爆風に煽られ燃え上がりながら煩悩即菩提存在即神秘と喚いていた。凧と揚げる声明祝詞真言陀羅尼聖句俳句聖歌を喉切り裂いて詠う宇宙塵の舌にしゃぶられて散逸曼陀羅。いつの間にか昇天しているこの世の果てにいて蛸となって海を見ていた新しい産みの歌を。」(「時の断片22」)
 呉屋比呂志『守礼の邦から』(OFFICE KON)の作者は沖縄にルーツを持ち、今は京都に住む。戦後リトル沖縄(大阪市大正区)の運河地帯で幼少期を過ごし、「歴史と伝統の京洛の地」で勤労学生となる。やがて詩作を通し沖縄の歴史と文化、「軍事基地の現状に向き合う」覚悟を持つに至る。本書の詩の多くは散文的だが、沖縄との「魂の奥処の共鳴」が詩性の煌めきを生んでいる。非業の死者たちの最期も、作者の沖縄への募る思いの中でヴィジョンとして蘇った。
「手をさしのべてまぶたを閉じようとすると/強く跳ね返って開かれるおじさんの瞳/―おれは何もかも砕け散ってしまった/おまえが俺のことを語ってくれ/俺は死んではいないのだと//珊瑚礁に砕ける白い波頭/紺碧の海と空遠く/おじさん 今日存命であれば八十八歳//かまぼこ板半分もない小さな位牌/粗末な漆塗りに金泥文字/陸軍兵長とある/おじさん あなたはおれと共に生きています」(「ぼくのおじさん」)
 紙幅は尽きたが上手宰『しおり紐のしまい方』(版木舎)にも惹かれた。詩とは「夢の中で自分自身が受けとる」手紙だと作者は言う。リルケを想わせる豊かな孤独と、詩だけがなしうる思索に満ちた詩集だ。