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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

HP「詩と絵の対話」を更新しました

新しい年となりました。今年もどうぞよろしくお願いします。

 

世相や時代状況はどうあれ、古い時間と新しい時間が入れ替わる新年の感覚はやはりよいですね。

 

HP「詩と絵の対話」を更新しました。

URLはhttps://www.shikukan.com/ です。

 

今月のゲストは長田典子さんです。昨年新詩集『ニューヨーク・ディグ・ダグ』を出されたばかりの長田さん。新たな詩の境地に立ちつつ、ご自身の詩性と向き合う新鮮なエッセイを書いて下さいました。私はシャルロッテ・ソロモンというアーティストを知りませんでしたが、絶望の時代にこのような輝く絵を描いた人がいたことを知りました。

 

私は「プレヴェールのコラージュ」というエッセイを書いています。フランスの「国民的詩人」とも言われるプレヴェール。シャンソン「枯葉」や映画「天井桟敷の人々」の脚本を書いた人として知られています。若い頃シュルレアリスム運動やコミュニズムにも関わったプレヴェールは、その人生の終わりに何と数多くのコラージュを作っています。素敵な詩書きのそんな一面を知っていただきたいということもあって書いたエッセイです。

 

合わせてぜひご高覧下さい。

 

 

2019年12月17日付しんぶん赤旗文化面「詩壇」(最終回)

 今現実を直視する詩人は、怒りの感情と無縁ではいられない。そして詩とは怒りを解消するのでなく、より深いものにする言葉の模索だ。
 水島英己『野の戦い、海の思い』(思潮社)には、沖縄の基地問題に対する激しい怒りがある。だが作者は感情をあらわにはせず、自身に耳を澄ませながら書く。徳之島出身の作者の魂は、沖縄の魂と繊細に共振する。
「基地の島の数々の不条理/昔も今も変わらない、日本人の/圧政者たちの厚顔無恥/暴くのは武器ではない/余りにも多くの戦死者たちの無念が暴くのだ/魂の飢餓感として、いまだ浮遊し続け/凝固して「命(ヌチ)どぅ宝」という不滅の言葉になる/その思(ウム)いに応え/明けもどろの花となって/太陽(ティダ)が燃え立つ/その場所を/沖縄と呼ぶ」(「沖縄」)
 宮尾節子『女に聞け』(響文社)にあるのは、男性優位社会がもたらす暴力性への怒りだ。原発や虐めや差別、そしてその帰結としての戦争への怒り。だが作者の怒りにはユーモアと情愛と、母が息子を抱きしめるような命の温もりがある。
「わたしが/恥ずかしい、格好をしなければ/こんなにも/恥ずかしい格好をして、ひとりで踏ん張らなければ/あなたは、この世に生まれて、来れなかった。/(略) /どんな姿から、いったい何が生まれるか。生まれないか。/男よ、だから/あなたが忘れている。産声を、わたしは知っている。//けんぽうきゅうじょうに、ゆびいっぽん/おとこが、ふれるな。やかましい!/平和のことは、女に聞け。」(「女に聞け」)
 宮尾の詩集はクラウドファンディングによって資金調達された。現状への怒りを抱え詩に期待する人が多いことに驚く。
 詩は人間の根源的な感情として、命の底から今もつねに溢れている。
 

2019年12月16日付京都新聞朝刊「詩歌の本棚・新刊評」

 先月訪れたパリでの散策中、ある街角を曲がると、ふいに詩が現れて驚いた。壁二面にわたりランボー 「酩酊船」が刻まれていたのだ。壁の近くにかつてあったカフェで、17歳の詩人はパリ・コミューンへの共感をもとに書いたこの名作を朗読したという。荒れ狂う波に酔い痴れる船の幻想の詩。言葉そのものが石の街にざわめく海のように思えて、暫く足を止めた。
 武部治代『人恋ひ』(編集工房ノア)の作者は、「湖水の地」に生きながら、
「荒寥の海」に憑かれる。海の予感は、琵琶湖という深く静かな存在から、日々突きつけられる詩の予感でもある。本詩集で「私」という主体はひたすら澄明で、余計な私的物語はそぎ落とされている。それゆえ読者は詩の言葉と共に、鋭敏な「存在論」のただ中に、おのずと身を置くことが出来る。すぐれた思索とゆたかな感受性の詩集である。
「近江の広域を埋めるかのような/湖水の地に越してきても/海を恋うた/矛盾のなかで懐かしんだ//小止みなく降る雪は/黝い湖面に抵抗もなく消え/跡もみせず/降る雪に湖は黙したまま/限り有る刻を受け容れていく/(それは永劫でもあり)/染み入る水にむかい/北湖の無言のたたずまいに圧されていた/ここは北端/青鈍(あおにび)の静寂に閉じ込められて 柔らかく/汀に立つ//鼓動の奥で/波立つ海をおいて/湖へ移行していくものがある」(「湖水地方・冬」)
 湖と海から汲まれた存在論的な言葉は、戦争やアウシュヴィッツとも対峙する。詩集の終盤で言葉は登山という身体行為と一体化し、祈りの闇の中で「降る星の/沈黙に包まれる」。
 今野和代『悪い兄さん』(思潮社)は、もはや革命という社会システムの根源的な転倒は不可能であるという苦い認識の下で、たった独りで抵抗する「悪い兄さん」たちの幻影を追う。作者自身をそこに重ね合わつつ、斃れた者たち(女性も子供も含む)をうたうように哀悼する。ビリー・ホリディの歌「奇妙な果実」と絡め、昨夏刑が執行されたオウム真理教の死刑囚たちの最期の姿も浮かび上がらせる(「ビターフルーツ」)。そんな本詩集にはランボーもいる。二十歳で詩を捨て、やがて砂漠の武器商人となった反抗の詩人も、たしかに素敵な「悪い兄さん」である。
「もぎとられて/この地上に落ちた/神さまの林檎みたいに/甘い芳醇な魂を滴らせながら/蜃気楼めいたノスタルジーと/ママレードのほろ苦い悔恨を/明けはじめる平野の空の青にすばやく溶かせて/きらきら光る真白な夏雲の尻尾に飛び乗ると/駱駝と隊商とソマリア人とランボーが歩いた/砂漠アビシニアのアデンを越えハラルを過ぎ/きみはもう呼んでもふり向かない背中になった」(「影と旋風」)
 徳永遊『生きている間(あいだ)』(土曜美術社出版販売)は、生きている間「次々と生まれて来る泡のような不安」に、詩によって形を与えていく。不安の「泡」は捉えられず消えもしない。だがそれを感じ考え夢想する「自由」をこそ作者は描き出そうとする。暗い海中の魚が、自分の尾鰭をつかのま垣間見るように。
「そうしてわたしたちは/孤独と不安の寄する波の間を/かいくぐりかいくぐり/魚のように張りついた目を/見開いたまま眠る/(略)/時々水の中で/鱗が銀のように光るのは/幻だと魚は諦めた//房総半島の昼の光が/魚の目を射た/一瞬/悪魔のようにピンピンと鮮烈に/跳ね銀鱗を光らせた//昼の光がより烈しく鱗を光らせる/はじめて魚は自分の銀の尾鰭を見た」(「波の間」)

2019年11月25日付しんぶん赤旗「詩壇」

 大西昭彦『狂った庭』(澪標)は、世界の片隅で生きる弱者たちの気配を、的確な描写と巧みな比喩で、読む者の感覚の深みに伝える珠玉の一集だ。

  作者は映像プロデューサーでもある。ユーゴ内戦や阪神・淡路大震災を取材した。本詩集には作者が出会った同時代を生きる、あるいは生きられなかった者たちの気配が立ち込める。

 内戦のユーゴの村で、旅人である自分を家に招き入れた男が、目の前で撃たれ亡くなった。

「ぼくはわけもわからず地べたにひれふし、/ゆらゆら揺れる緑のなかに転げこんだ。/炎のように熱かった。/からだがガシガシに乾いた雑巾のように強張っていた。/揺れる緑のむこうに、白目をむいた男の顔があった。/どろんとした重そうな血が地面に広がっていくのが見えた。」(「ゆらめく緑」)

 「血の重さ」は今世界を覆う。戦争、グローバリズム、気候変動―全ては止まない雨に打たれ自滅するかのようだ。

「錆びて鉄屑のようになったルノーが/通りの片隅で雨に打たれている  色を失い/まるで白亜紀の終わりの凍える恐竜のようだ」(「薄紅色の花」)、「爛々と輝く目に空虚をにじませ/ストリートチルドレンの少女がいった/ただ死ぬのを待って生きているだけ」(「春と死」)。

   一見平和な日本の「オイルペイントされた夏空」(「真夏の痩せた鳥たち」)も同じ重さだ。だがそれと知らず乗り越えていくものがある。出稼ぎのフィリピーナたちの「生きていくことに/ためらいのない鳥たちの歌」(同)、「すべてが白く消失した路地」に死者の魂のように巣食う「無花果の影」(「昏(くら)い水」)、病んだ自分に肩を貸す刺青の男―。

 世界という「狂った庭」。この詩集にみちるのは、そこになお雨音と沈黙を聞き届けようとする静かな意志だ。

2019年11月16日ビジュアルポエトリーパリ展オープニングにて

一昨日に行われたヴィジュアルポエトリーパリ展のオープニングで朗読しました。作品は4点出しています。

 

朗読はベルリンのフランツ奈緒子さんにフランス語訳を、私の日本語に一部重ねるように読んでいただきました。

 

フランツさんとは、2012年大飯原発再稼働をきっかけにツイッターで始まり、いつしか私が取りまとめ役になった「連歌デモ」にベルリンから投稿していただいたことがきっかけで知り合い、今度でお会いするのは二度目。今回快く引き受けてくれ、お忙しい中ベルリンから来てくれました。前日から詩の内容あれこれ一緒に考えたり、読み合わせを繰り返す中で、互いの言葉や詩や世界への思いを確認し深めることが出来、大変充実した時間を過ごしました。

 

作品はまあ何とかできたという程のもので、「ビジュアル詩」というより「箱庭詩」とでもいうべきもの。パステルカラーの色もパリの弱い光では意外と映えず、まだまだ課題がありますがー。

 

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2019年11月4日付京都新聞「詩歌の本棚/新刊評」

 今現代詩の存在意義が見えにくい。書店の詩の棚はもはや短詩型が主流だ。社会の急激な変化に人々が抱く危機感に対し、このジャンルは応答が遅れているからだろう。個人の物語に閉ざされた詩も漫然と増えているようだ。だがそもそもは現代性を根拠とするジャンルだ。戦後詩のように際だつことはないとしても、今の現代詩に固有の形で時代に共振する方途はかならずあると思う。
 鎌田東二『狂天慟地』(土曜美術社出版販売)は昨年から刊行の続く「神話三部作」の掉尾を飾る。「詩を書き始めて五十年、半世紀が経って、自分なりのけじめというか区切りをつけたかった」。そのような本詩集には、宗教哲学者でもある作者の詩の原点をテーマとする作品もあり興味深い。神秘体験に近い記憶を足場として、人災でもある現在の天変地異がもたらす世界の混沌に向き合い、作者は鮮やかな「最終の言葉」を放つ。
 とりわけ台風19号が襲来した直後に読んだ連作「みなさん天気は死にました」は、甚大な被害の光景とおのずと重なり、胸に突き刺さって来た。表題は、五十年前作者が投稿欄で出会った高校生の詩の題名だという。「田村君」のその言葉が作者の中で「鳴り響きつづけ」、「初動を衝き出し」、本詩集に「結実した」のだ。「天気の死の行方を追いつづけた五十年」の間、「田村君」の一行は、作者の詩作を支え導いて来たことになる。
「みなさん天気は死にました/こころの準備はいいですか?/からだの準備もできてます?/たましいの準備はいかがです?//みなさん天気は死にました/死んだとはいえ天気はあります/狂天慟地の天気ではありますが/前人未到把握不能のお天気ですが」
「みなさん天気は死にました/秦の始皇帝ばかりではありません/あらゆる時代のあらゆる為政者は/天気のこころを気にはしながら天気を憎みました/思い通りにならないもの すごろくの賽 賀茂川の水 僧兵/いや一番思い通りにならないものは 天気のこころでございます」
 君野隆久『声の海図』(思潮社)は、五十代での第三詩集。「十代で詩に惹かれ」、三十代四十代に各一冊出した。「あとがき」で作者は、自身の「蝸牛の歩み」を「自分と詩とのかかわりの固有な時間配分だった」と捉える。時代の急激な変化に惑わされず、詩と関わる自分の時間を見つめて書くことは大切だ。言葉が時代の散文性に奪われず、結晶化するまで待つための「遅れ」ならば、詩にとって必要不可欠なのだ。詩「塩田」は、繊細な筆致で作者の詩作自体をモチーフとしているようにも読める。
「速度を上げる車両の傾きを感じながら/麗かな湾を眺めていると/前方に/きらきらと白い光を発する場所が見える/(さながら指輪の宝石の位置)/湾曲の向こうから痛みの光の錐を/眼に揉みこんでくる/あれが塩田のある町か/そこは昔ながらの方法で砂田に何度も海水を撒き/天日で塩の結晶を析出させる/古代からの製塩法を守っているのだという/いかにも遠くからでもわかる結晶質の反照に領された町」
 渡部兼直『あなたのいのちの日時計の上』 (編集工房ノア)は翻訳詩と自作を収める。自作詩に「天気が死んだ」世界の一隅の姿が、垣間見えている。
「豪雨にみまはれ/橋桁をいだき/泣いてゐる/幽霊は/ひそむ場所どこも無くなり/もつとも困つてゐる/暗い夜空の/寒い烈風に/吹きさらされ/すすり泣いてゐる」(「冬来たる)