原発には「おっとり」も、「たけている」もないのですが・・・。建設の背景には、封建社会そのままの日本の実相が存在していました。
6月20日付京都新聞朝刊
原発と国家第2部�C東北電も福島に計画
(写真は東北電力が計画している浪江・小高町の原発予定地↓ )
福島県大熊、双葉両町が原発県建設の熱気に沸いていた1960年代後半、東北電力によるもう一つの原発計画が、隣の浪江町で動きでしていた。
68年1月4日、知事の木村守江が年頭の記者会見で建設内定を明らかにし、翌日には東北電が発表。実は約7カ月前に町議会が誘致決議をしていたが、多くの住民に計画は寝耳に水だった。
「相談もなく誘致して許せない」「土地は絶対に売らない」。無視された形の農民らは「反対同盟」を結成。根強い抵抗に、電力や行政側による切り崩しが始まった。
原発は浪江町と小高町(現南相馬市)に一部またがる約150万平方平方メートルに建設する計画。反対運動にかかわった浪江町の元中学教諭大和田秀文(78)によれば、予定地は、高台の北部と低地の南部に分かれていた。
「北は入植者が多く、南は先祖代々からの土地で愛着が強い。北が狙いをつけられ、崩された」
相場の地価より4、5倍は高い額を示され「お土産付きの原発旅行」もあった。「最初は団結していたが、懐柔工作は強まった。飲ませ食わせ、あとは金。土地の売却を約束すると、役場や東北電への就職の日利きもあった」と大和田は話す。
40年以上たった今、ほとんどの地権者が用地買収に同意した。しかし一部の根強い反対に、いまだ買収は終わらない。
対照的に、東京電力は80年代までに、浜通り地方の沿岸に第1、第2原発合わせ10基の原子炉を並べることに成功した。
「おっとりと構えている東北電と比べ、地権者対策にたけていた。強引に説得し、狙った獲物は逃さない」。浪江町の町長馬場有(62)が両社の社風の違いを説明する。
立地は順調だった東電だが、運転開始後は放射性物質を含む廃液漏えいなど多くのトラブルが明らかになり、地元対策の中心は「利益誘導」から「不安解消」に移る。
「東北大卒の医師が第2原発の建設に反対したときは飲み屋の2階で説得した。5、6回会って『おまえがそんなに言うなら間違いないだろう』と最後は納得してくれた」。元東電副社長の豊田正敏(87)は振り返る。
公民館での説明会に住民を集めるため『男はつらいよ』を上映したことも。原発の所長経験者は「住民は技術面を理解して安全だと納得するわけではない。日ごろ酒を酌み交わし『所長が言うから大丈夫』という信頼を得てきた」と胸を張る。
大熊町の元原子力担当課長も東電を信頼していた。77年、ノズルのひび割れが相沢ぎ、立ち入り検査に立ち会った。何十センチものひび割れを間近に見たが、社員は「表面だけで、修復は可能です」と事もなげに言った。
「ああそうですか」としか返せなかった。元課長は「専門的なことになると分からない。大丈夫ですと言われれば、大丈夫と思うしかない」と自嘲気味に話す。
専門用語を振りかざし強調される安全。ある住民は「催眠術のようだった」と語る。「安全神話」が深く浸透していく。
大震災の後、東北電は浪江町の計画を「検討中で未定」としており、白紙となる可能性も。しかし、馬場は避難先の二本松市にある臨時役場で言葉を選ぶ。「議会の決議もあるし土地を提供した人もいる「軽々には結論は出せない」。いまだ迷路の中をさまよう。(敬称略)