#title a:before { content: url("http://www.hatena.ne.jp/users/{shikukan}/profile.gif"); }

河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

4月4日付京都新聞朝刊「詩歌の本棚」

少し前の掲載になりますが、アップします。

このところずっと
女性詩についてあらためて考え始めていました。
女性が詩を発見し、選択し、書いてきた歴史には、男性のそれとはまったく違う、切実なものがあったと感じます。
明治期から、詩という自由な形式から女性たちはその感性と勇気を触発されてきました。
おかしいものはおかしい、うたいたいことはうたう、というように。
今あらためて学びとれることは多いはずです。

                    *******

 かつて「女性詩」という言葉が、詩のジャーナリズムを華やかに彩った時代があった。一九八〇年代、女性を書き手とした詩誌『ラ・メール』が刊行され、戦後生まれの女性詩人達が活躍した頃のことだが、残念なことに今「女性詩」は死語にもひとしい。現在の詩の世界には、女性固有の詩表現の可能性を考えようとする動きは殆どない。もちろん詩を予め性別で振り分けることはナンセンスだが、明治以降、与謝野晶子を皮切りに女性詩人達が模索してきた詩の歴史には、理に傾きがちな男性の詩にはない可能性が確かにあるのだ。時代的な限界はあっても、初期の女性詩人達の言葉で解放されたいという願いや、詩という新たな形式への憧れには、今では考えられない程の詩人としての純粋さがある。現代詩はすでに曖昧な現代性にもたれ過ぎた感があるが、だからこそ再び「女性詩」の歴史から学びとることは多いのではないか。

 鈴木陽子『金色のねこ』(私家版)は、ユーモラスたっぷりの詩的変身譚といえる。主体は巧妙に事物や獣へと変わろうとするが、この詩集が単純な寓話に陥っていないのは、小手先でたやすく変身してしまわないからだ。変身の難しさと葛藤しつつ、しなやかな詩のエネルギーを獲得している。「変身願望」とは、確かに女性性の一つの表れでもある。 

「恋をしなくなって/わたしは二十(はたち)でおばあになった。/イノサンスになろうとして/おばけになった。/階段を転げ落ちながら/天地の方向感覚を/失ったとき/うす汚れた獣になり/まんまるにふくらんだ皮に包まれて/目だけぎょろつかせて一つの皮袋になった。/おばあになったので/男も食ってみたかったが/毒もまわりそうでなかったので/食うのをやめた。」(「おばあのおはなし」全文)

 紫野京子『風の芍薬(ピオニア))』(月草舎)の作者は、詩誌「貝の火」を主宰した。同誌を中心に「詩と共にあった日々」における、詩人同士の「信義に満ちた関わり」の結実としての作品が並ぶ。詩そして他者と共に生きるという「共生感覚」もまた、女性だからこそ護りうる大切な詩のスタンスだ。 

「数分も経たない間に/あたりは一面の濃緑に変わる/生きている間/一度も会えなかったひとの詩篇が/今朝 庭いちめんに咲いていた/空と同じ色のかなしさで//読まなかった あなたの詩篇と/出会ってしまった あなたのこころ/永遠に 途切れた轍を残して」(「露草の庭で──C・Kに」)
 西山光子『惜春』(澪標)は、今生きる場所での自然や他者との交感を、柔らかな口語体で表現する。日常の実感から語るように書くという「直接性」も、「女性詩」の大きな特徴だ。

「二〇〇九年六月十一日午前三時二十五分/人知を尽くした土産を残して/「かぐや」は果てた/約束どおり「おきな」の許へ/モロヘイヤを刻む手が/ぬめぬめ乱れていたり/トントンリズムを打ったり/地球に生きる青い実感」(「『かぐや』」)

 上坂京子『風と曼珠沙華』(深夜叢書社)は、「わたしの孤独」という真実の思いを知的な文体に盛ろうとする。両者がつりあう時、次のような緊張感ある作品が生まれる。

「萌黄色にくるまった/かたい意志で結ばれた/一年ごとの逢瀬の期待を/裏切ることのない/誠実に耐えた夏から冬を/きりりと一粒一粒に/その光沢に//私はいま都会に住みながら/おまえの生をはげしく追想する」(「八朔(はっさく)について」)