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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「フクシマ以後詩を書くことは野蛮か(四)」

昨日の記事に引用した詩「(ハコヤナギよ)注:実際は無タイトルです」には
亡き母へのツェランの痛切な思いに満ちています。
しかしそれは、死者への単純な追悼の思いではありません。

収容所で射殺され不条理な死を遂げた母は、
死者のイメージとしてさえこの世にはいないのです。
それは、この世の象徴の秩序の中にはいない、ということです。

つまり母は、
いってみればラカン精神分析学の現実界(=象徴界(言語)や想像界(イメージ)から逃れた、トラウマや不安でしか捉えられない世界の真の現実)の内に
いまだ生きているということではないかと思います。

母はたしかにどこかにいて、「皆のために 泣いている」。
雨雲さえもはや涙を忘れているのに。
けれど母は従来の死者と名づけられる存在ではありません。
死者という表象としてこの世のイメージの秩序の中には入って来ていないのです。
もし母がこの世のイメージに組み込まれる存在であれば
「ハコヤナギ」の白にも、タンポポの「金色」にも喩えることが出来るはずです。
けれどここで母の存在はかすかなイメージとして蘇る寸前
「白くならなかった」「帰って来なかった」と次々に否定されていくのです。

後はただ自然だけが輝く中に
死者とさえ言い得ない絶対的な不在が残されました。
それがツェランにとって母の真実の姿です。

扉は開いているのに入って来られない母。
彼女は開かれた敷居に、扉が吹き飛ばされた生々しい破壊の暴力の余韻に怯えています。
死んでいるのになお、死を恐れているのです。
そしてその怯える気配だけが
母がどこかに
存在ともいえない存在として生きていることを、不思議な形で伝えるのです。

件のアドルノの発言の真意は
表現者アウシュヴィッツを、つまり残酷な殺され方をした死者を
イメージ化してはいけない、ということだと思います。
死者がこの世の秩序の暴力を恐れ、絶対的不在となったという真空の世界こそが
アウシュヴィッツ後の世界の「実相」なのだから。
そのような世界ではたしかに比喩はありえない。
比喩が失われた者を蘇らせる「蝶番」であるならば。

しかしツェランの詩は絶対的不在からこそ書き起こされているのです。
そして「どこか」で泣いている母の怯えに耳を澄ませ共振しているのです。
狂気に至るほどの繊細さで集中力で
母の髪の毛のようにほそい弦となってふるえて。

そのようにして?まれた「石」や「光」や「目」や「息」や「涙」であれば
アウシュヴィッツ以後の比喩として、いやアウシュヴィッツそのものの比喩としてさえ
許されるのではないでしょうか。
もちろん、声なき怯える無数の死者によって。