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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

6月4日付京都新聞文化面「詩歌の本棚/新刊評」

  金時鐘氏の詩集が次々刊行されている。『金時鐘コレクション』(藤原書店)、金時鐘詩選集―祈り』(丁海玉編、港の人)、新詩集『背中の地図』(河出書房新社)と続く。これら三書からは一九五〇年代に始まる氏の、六十年以上の詩的営為の全体像を見て取ることが出来る。そこに貫かれているのは歴史と社会に向きあい、弱者に寄り添う姿勢だ。それは、朝鮮人として日本語で詩を書くこととは何かという弛(たゆ)まぬ自問に支えられている。植民地下朝鮮で自己形成した氏は戦後、自身に巣食う「日本」と対峙しつつ日本語で詩作した。そしてそうした詩作を、朝鮮人として生きるよすがとしてきた。
 『背中の地図』は原発事故と渾身で向き合った力作だ。金氏の研ぎ澄まされた日本語が、見捨てられた核被災地の悲しみと怒りの姿を描き出した。詩に寄り添われそれは、闇の中で希望とも絶望ともつかない微光を確かに放っている。
「目を閉じて思い見る。/日増しにつのる地球の荒い息づきを、/天外の青い火にかげってゆく/うっ積した焔(ほむら)の真赤なたぎりを。//まばゆい浪費に浮かれているのは/利に敏(さと)い己れである。/利便さに相好をくずし/夜を追いたてた不夜城に悦に入っている。//思いおこすのだ。/産土神が坐(ま)しました里の夜は/畏(おそ)れがしろしめす奥深い暗(やみ)だった。/その畏れを散らして/禍いは青く燃えているのだ。」(「入り江の小さい村で」)
 井崎外枝子『出会わねばならなかった、ただひとりの人』(草子舎)は、受け容れがたい夫の死を受け容れようとする魂の戦いの詩集だ。「死と出合って真っ先に折れてしまったのが、言葉だった」という。絶対的孤独はどんな言葉も、「簡単に打ち破ってしまう」。「でも、しかし、言葉しかない」―言葉の根源を支えるのは、愛する他者の存在(あるいは不在)なのだ。大震災もまた多くの人々に絶対的孤独をもたらしたが、残された者にはたとえ無力なものであっても言葉しかない。言葉とは、人間にとって最後に残される希望かも知れない。
「いつの間にか暗雲は立ち消え/あたりはすっかり明るさをとりもどしていた/一瞬 どこか涯のないところにまで行ってきたような/言葉をさがすが 言葉にならない/ああ! なんと数少ない母語だろう/なぜ一つの母語しか持たないのだ/遠い語族に触れてしまったのか/濡れたように重い 手の感触」(「雲を追って」) 
『原圭治詩集』(土曜美術社出版販売)の作者は十三で敗戦を迎えた。当時十七歳だった金氏とほぼ同世代。初期から現在までの詩を収めるが、全ての詩が平和へのつよい思いから書かれている。テーマなき現代詩を批判したエッセイは、頷くところが多かった。
「私は戦争体験を持たない世代の人々にも、どのような手段と方法でもってしても、あの戦争についての事実を、想像力を働かして思慮深く考えて欲しいと思う。そこから人間にとっての「個人の尊厳」とは、という一つの答えが導き出されてくるのではないかと考えている。」(「時代の新しい分岐点に私たちは いる」)
  リジア・シュムクーテ『白い虹』(薬師川虹一訳、竹林館)の作者はリトアニア生まれ。第二次大戦後幼少期を難民キャンプで過ごした。凝縮された短詩形式には、かけがえのない言葉への思いがあるのだろう。
「言葉がどもりながら/文章になり//時は/消滅の縁で/ためらい//全ての存在と/不在とがそこで出会う」(「言葉がどもりながら」全文) 

『ファントム 』3号(編集/発行 為平澪)

為平澪さんが主宰する詩誌『ファントム  3号が届きました。

  

とても美しい装丁で、手に取った落ち感も良く、1号ずつ、まさに職人技で一つの詩の「空間」を創造しようとする為平さんの意志が、すみずみに感じられます。


執筆者は浦世羊島、麻生有里、奥主榮、岡田ユアン、金井裕美子、酒見直子、為平澪、一色真理、フォトポエムに尾崎まこと、エッセイに墨岡孝、私は詩のゲストに呼んで頂きました。総勢11名、60頁です。それぞれの詩の現在をしっかり見せる作品群を、主宰の為平さんの詩的磁力が魅力的に繋いでいるという印象を持ちました。


私もかつては何誌もの同人誌に、主宰も含めて関わったものですが、 ここ十年は所属誌はありません。しかしこうして力ある同人誌を手にしてみると、懐かしさと同時に、ひととき他者と詩の空間で隣り合う安らぎや、もう一つの現実としての詩の共同体への憧れが思い出されてきました。


墨岡孝さんのエッセイ「現代詩についての雑感」は、一般にこの国の戦後詩の出発とされる1951年の『荒地詩集』巻頭の「Xへの献辞」とどこか連なるものを感じさせました。


「私達は、まず自己の内的な経験のなかに深くかかわることから詩をはじめなければならない。それが今日的意味で、最も状況的な人間の姿であるような気がしてならない。詩人は、個々の内なる沈黙の規範のなかにその豊かな感受性の根をおろさなければならない。」


ちなみに私が寄せた作品「髑髏」は、このところ密かに書き継いでいる伊藤若冲をめぐる連作の一つ。若冲の絵は若冲が残した美であり、沈黙そのものだと思っています。その「詩」が三百年後の今、私のあてどないの「感受性の根」を惹きつけてやまないのだ、と。

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平和をうたう訴求力(5月28日付「しんぶん赤旗」)

   平和をテーマとする詩は今決して少なくない。平和が脅かされる時代に平和を描こうとするのは、自然であるし望ましい。だが詩の世界を越え、市井の人々の琴線に触れる言葉はまだ生まれていない気がする。足りないのは何か。自戒も込め最近ではこう思う。足りないのは訴求力だ。平和な生活を描写したり、戦争を説明したりする力は十分だが、訴求の鋭さはむしろ削がれている―。 

  ではこの現在、どうすれば訴求力を獲得できるのか。失われて初めて気づく平和の絶対的な尊さを人々の心に喚起する言葉は。表面的な平和にともすれば眠り込みそうな自分を目覚めさせる言葉は。

  詩誌「午前」(発行人布川鴇)で神品芳夫氏による連載「詩人木島始の軌跡」が始まった。三年前に出た『木島始詩集 復刻版』(コールサック社)は私に深い感銘を与えたが、氏の連載に触発され久しぶり読み返してみた。すると感銘のゆえんが、この詩人の訴求力にあったことに気づいた。

   木島は一九二八年生まれ。学徒動員先の広島の工場で被爆者の救助に当たった体験を、詩作の起点とする。〝黒人詩〟の翻訳や絵本の作者としても有名だ。その独特の訴求力は「彫塑的」であり、「闘う姿勢とエロスを含んだイメージ」から生まれている(神品氏)。平和の下での歓喜や愛から、死者の代弁者として平和を訴え、戦争犯罪を鋭く糾弾する。今最も学ぶべき詩人ではないか。

「鳩 …………いまや、空を馳せるぼくらの純白の軌跡。/誓って、方位まごうまいぼくらの鳩。」「鳩」(一九五〇年)末尾部分。

   この鳩は平和の象徴を超え、平和への希求そのものとして、私の胸に飛び込んでくる。

金時鐘コレクション発刊記念イベント「今なぜ金時鐘か」にご参集を!!

金時鐘コレクション発刊記念イベント「今なぜ金時鐘か」が、いよいよ来週の土曜に大阪で行われます。

私もパネラーとして参加します。

金時鐘さんの生と詩は、植民地下朝鮮と戦後革命という、この国が忘却し抹殺した歴史のネガとして今こそ立ち上がってきています。「すべての絶え入るものをいとおしまねば」(尹東柱「序詩」)という思いで詩を書きつづけてきたひとりの詩人の至純さに、ひととき触れてほしいと切にねがっています。どうかご参集下さいませ。


  金時鐘コレクション発刊記念イベント

                〜今なぜ金時鐘か〜


[基調講演] 

 姜信子(詩人、エッセイスト)

[自作朗読とお話] 

 金時鐘

[シンポジウム]

 河津聖恵(詩人)

 佐川亜紀(詩人、韓国詩・在日詩研究)

 趙 博(歌手・俳優・物書き)

 細見和之(ドイツ思想/京都大学教授)

 〈コーディネーター〉 文京洙(政治学立命館大学教授)

  ※出演者が一部変更になりました

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[日時] 2018年5月26日(土)

  13:30開会(開場13:00/16:30頃終了予定)

[会場] 東成区民センター 小ホール

  大阪市東成区大今里西3-2-17

  地下鉄千日前線今里筋線「今里駅」下車

  2番出口から西へ徒歩約3分

[入場料] 1000円 

  (定員209名程度/全席自由)

[申込み・お問合せ] 株式会社 藤原書店 Tel.03-5272-0301

[主催] 株式会社 藤原書店f:id:shikukan:20180514174141j:plain


 


歴史の明日をまえに

明日は、朝鮮戦争終結する歴史の転換点を迎える。だが新聞のテレビ欄を広げてみても、朝鮮戦争と何だったのか、というような特番をテレビ局のどこも組んでいない。その様相はあまりにも予想通りで(むしろ今しか見ない視点でバッシングする論調ばかりがある)、歴史どころか人間の消滅すら感じる。


朝鮮戦争で日本は兵站基地であり、参戦もし死者も出ている。戦争特需から高度成長も可能になった。それは誰でもうっすらと知っていて、誰でも本当には知ろうとしないで来た歴史だ。私もどこまで知ろうとして来たか心許ない。


数年前訪れた韓国の美しい山林のお寺で見た、無数の生々しい弾痕の跡を思い出す。在日韓国・朝鮮人の友人知人たちがそれぞれに来歴をかたる言葉が蘇る。韓国で「朝鮮半島のことをもっと知って下さい」とそこに生きる友人にふいに日本語で言われた。朝鮮学校の無償化を求める街頭宣伝で、生徒たちは通行人に呼びかけている。「なぜ私たちがこの日本にいるのかを知って下さい」。


明日は私たち日本人が、歴史の大きな流れから確実に弾かれていく「歴史的」な日になるのかも知れない。


しかし歴史だけが人間を生み出していく。歴史から見捨てられては人は人として生きていけない。明日から朝鮮半島は未来へ進むが、日本は過去へ進まなくてはならないのだと歴史は告げていると思う。


ポプラそびえたつ闘いの土地に

                                  木島始


朝鮮半島ーー


今  そこではすべての踏みたおされた樹木が草が

赤黄色にしなえて抗死する

ゲリラ団の雌伏の色に


海と河口  小川と井戸

すべてが  口を嗽ぎえぬまでに濁らされ

覗きこむ  はげしい人民の渇えに蒸せる


朝鮮半島ーー


今  そこでは焼きはらわれる山が野が

火あぶりの  子供たち  母親たちが

解放の夜明けるまで  苦しみの悶えをくすぶる


一九五〇年十月ーー


そこには  地熱が  憤りあつまり

全世界の人民の  まなざし受けて

仰げば  涙のしたたり落ちるような  秋色が

今は  あまねくゲリラ団の勇気の色だ。

                              (一九五〇年)



4月20日付しんぶん赤旗「詩壇」第4回・「モダニズム」の自覚

  現代詩とは、形式とテーマにおいて「絶対に現代的であらねばならない」(アルチュール・ランボー)詩のジャンルだ。では「現代的」とは何か。それは、詩人が自分と自分の生きる時代を考え尽くすことから獲得される、時代を乗り越える言葉の新しさ、ではないか。
 現代詩から思想やテーマが消えたと言われて久しい。自己愛や幼い叙情、仲間うちだけで了解しあう曖昧な晦渋さが、実際眼につく。ある種の若い書き手たちは「ゼロ年代」と呼ばれるが、それも年代というより思想やテーマの希薄さを指す。そうした「不毛さ」において、詩が唯一依拠しうる思想があるとすれば、それは「モダニズム」ではないか。希薄さの下ではあれ、誰もが新しさを求めて書いているのだから。問題は書き手が自分の「モダニズム」をどう自覚し、深めていくかだ。
 中原秀雪『モダニズムの遠景』(思潮社)は丸山薫春山行夫金子光晴を扱う。いずれも一九二〇年代に隆盛したモダニズム詩で、大きな役割を果たした詩人たちだ。特に春山論は力作だ。春山は明治期以来の理論を持たず旧態依然たる詩に、「理論化され、方法化された詩的思考」で対抗した。その詩は現実離れしたメルヘンにも見まごうが、そこには詩を絶対に現代的にしようとする意図があった。戦争詩を書かないことで権力に抵抗したという見方もある―。
 だがモダニズム詩に生まれたかすかな抵抗の萌芽も、やがてファシズムに摘まれていく。その後戦争詩を書いた詩人もいれば、少数ながらコミュニズムに向かった詩人もいる。その差は何によるのか。一九二〇年代から百年が経とうとする今、モダニズムという視点から今と過去を繋げてみたい。

2018年4月16日付京都新聞文化欄「詩歌の本棚/新刊評」

   現代詩から今思想やテーマが消えていると言われる。最近の詩誌や詩集から私もそうした印象を持たざるをえない。ある種の若い書き手達は「ゼロ年代」と呼ばれるが、それは年代というより思想やテーマの稀薄さを指す呼称だろう。その「不毛さ」の中で詩が唯一依拠しうる思想は、「モダニズム」ではないか。実際モダニズムをめぐる詩論も眼に付き始めた。折しもモダニズムの隆盛した一九二〇年代から百年が経とうとしている。歴史を振り返りつつ今の詩を考えるべき時かも知れない。
 金川宏『揺れる水のカノン』(書肆侃侃房)の作者は歌人。四十歳の時、第三歌集のために書きためていた三百首余りの未発表作品を、「半ば投げ捨てるように散文とも自由詩ともつかない破片に完膚なきまで解体し」、「廃墟」と名付けたノートに書きとどめ抽斗の奥に仕舞った。だが数年前、二十数年の時を経て作者はノートを引っ張り出し、そこに息づくかつての自分に再会した。一つ一つ声に出すと、言葉は「揺れる水のうえで微かに響き合った」。そして最初の一行が生まれた―。文語短歌一首に十四行の口語詩が続く「十五行詩」というスタイル
が斬新だ。短歌のイメージが蕾のように凝縮したイメージを、詩は柔らかに花開かせ、豊かに響き合う。そして両者をつなぐのはモダニズムの感覚だ。例えば「とほざかる窓に見えきて町をつつむ二重(ふたえ)の虹のほのかなる足」という短歌で始まる「雨の末裔」において、短歌の一人称のまなざしは詩で多視点に解かれ、世界の細部を自由に移動する。読む者に短歌の声が響き残る中で、詩のイメージは静かに前衛的に展開する。
「紫陽花のなかに淡い紅が差して 白雨が/瞳の奥をゆっくりと通り過ぎてゆく/ぐっしょりと髪を濡らした触角が/ほの暗く燈された水甕のなかを覗いている//しずかな蕾に 一瞬あらわれる夜の雲/井戸の中に忘れられた梯子 星座へ/うつぶせになったあなたの背中に/緑色の小さな翅が生えている」
  以倉紘平『駅に着くとサーラの木があった』(編集工房ノア)は、既刊詩集五冊からの選詩集。表題にも「駅」があるが、作者には乗り物や駅が登場する詩が多いという。それらはなぜか作者の心を惹きつけて止まなかった。ゆえにそうした名詞の入った作品をまとめたいと思った―。乗り物や駅はモダニズムが好むモチーフでもあるが、次の引用詩「サーラの木があつた」は、駅の詩的魅惑の秘密を解き明かしているようだ。
「〈駅〉とは何だろう それはこの世のことではあるまいか/〈着く〉とは何だろう それは遠い所から/この世に生まれたことを意味しているのではあるまいか/サーラには匂いと色があったはずだ/甘い花のかおり/風がにおいを運んできたのだろう/(風はひろびろとした野の方に過ぎさったのか/びっしりとつまった街の家並のほうへ吹きすぎたのか)/そう書くとも汚れてしまう感じなのだ」
 秋野かよ子『夜が響く』の作者は、子供の頃から「時間」に特別な興味を持っていた。経済に支配された現代において、切り刻まれた時間を回復させたいという思いが詩を書かせた。
「春 光に囲まれたその日 粒よりの羽を膨らます/タンポポの綿毛/今日別れわかれて 飛んでいく/死は タンポポのどこにあるのだろう/風が 隠してしまった」「じっと時を待つものがいる/小さい握り拳が集まった 紫陽花の花眼/大雨と風に晒され 怒りもせず/柔らかく 見せかけの花弁の技で戦う」(「季節の断片 誰が仕組んだ」)