現代詩とは、形式とテーマにおいて「絶対に現代的であらねばならない」(アルチュール・ランボー)詩のジャンルだ。では「現代的」とは何か。それは、詩人が自分と自分の生きる時代を考え尽くすことから獲得される、時代を乗り越える言葉の新しさ、ではないか。
現代詩から思想やテーマが消えたと言われて久しい。自己愛や幼い叙情、仲間うちだけで了解しあう曖昧な晦渋さが、実際眼につく。ある種の若い書き手たちは「ゼロ年代」と呼ばれるが、それも年代というより思想やテーマの希薄さを指す。そうした「不毛さ」において、詩が唯一依拠しうる思想があるとすれば、それは「モダニズム」ではないか。希薄さの下ではあれ、誰もが新しさを求めて書いているのだから。問題は書き手が自分の「モダニズム」をどう自覚し、深めていくかだ。
中原秀雪『モダニズムの遠景』(思潮社)は丸山薫、春山行夫、金子光晴を扱う。いずれも一九二〇年代に隆盛したモダニズム詩で、大きな役割を果たした詩人たちだ。特に春山論は力作だ。春山は明治期以来の理論を持たず旧態依然たる詩に、「理論化され、方法化された詩的思考」で対抗した。その詩は現実離れしたメルヘンにも見まごうが、そこには詩を絶対に現代的にしようとする意図があった。戦争詩を書かないことで権力に抵抗したという見方もある―。
だがモダニズム詩に生まれたかすかな抵抗の萌芽も、やがてファシズムに摘まれていく。その後戦争詩を書いた詩人もいれば、少数ながらコミュニズムに向かった詩人もいる。その差は何によるのか。一九二〇年代から百年が経とうとする今、モダニズムという視点から今と過去を繋げてみたい。