明日は、朝鮮戦争が終結する歴史の転換点を迎える。だが新聞のテレビ欄を広げてみても、朝鮮戦争と何だったのか、というような特番をテレビ局のどこも組んでいない。その様相はあまりにも予想通りで(むしろ今しか見ない視点でバッシングする論調ばかりがある)、歴史どころか人間の消滅すら感じる。
朝鮮戦争で日本は兵站基地であり、参戦もし死者も出ている。戦争特需から高度成長も可能になった。それは誰でもうっすらと知っていて、誰でも本当には知ろうとしないで来た歴史だ。私もどこまで知ろうとして来たか心許ない。
数年前訪れた韓国の美しい山林のお寺で見た、無数の生々しい弾痕の跡を思い出す。在日韓国・朝鮮人の友人知人たちがそれぞれに来歴をかたる言葉が蘇る。韓国で「朝鮮半島のことをもっと知って下さい」とそこに生きる友人にふいに日本語で言われた。朝鮮学校の無償化を求める街頭宣伝で、生徒たちは通行人に呼びかけている。「なぜ私たちがこの日本にいるのかを知って下さい」。
明日は私たち日本人が、歴史の大きな流れから確実に弾かれていく「歴史的」な日になるのかも知れない。
しかし歴史だけが人間を生み出していく。歴史から見捨てられては人は人として生きていけない。明日から朝鮮半島は未来へ進むが、日本は過去へ進まなくてはならないのだと歴史は告げていると思う。
ポプラそびえたつ闘いの土地に
朝鮮半島ーー
今 そこではすべての踏みたおされた樹木が草が
赤黄色にしなえて抗死する
ゲリラ団の雌伏の色に
海と河口 小川と井戸
すべてが 口を嗽ぎえぬまでに濁らされ
覗きこむ はげしい人民の渇えに蒸せる
朝鮮半島ーー
今 そこでは焼きはらわれる山が野が
火あぶりの 子供たち 母親たちが
解放の夜明けるまで 苦しみの悶えをくすぶる
一九五〇年十月ーー
そこには 地熱が 憤りあつまり
全世界の人民の まなざし受けて
仰げば 涙のしたたり落ちるような 秋色が
今は あまねくゲリラ団の勇気の色だ。
(一九五〇年)