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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2021年12月6日京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 人の心は今どんな傷を負い、どんな希望と絶望が明滅しているのか。不可視の痛みが多くの人の心に深まっているのは確かだ。自己の痛みからそれを捉えられるだろうか。痛みもまた心の奥底で共鳴しうる響きを持つとしたら。遥かな他者の痛みを感受するために、言葉をいかにアクチュアルに研ぎ澄ましていけるだろうか。
 藤井雅人『孔雀時計』(土曜美術社出版販売)のテーマは、人間と自然との間にある亀裂、もしくは人間における時間と永遠の相剋がもたらす根源的な痛みだ。作者の文学的素養に裏打ちされた格調高い言葉が、現代の痛みを抉りだす時、時空は遥かな過去と交わっていく。原発事故の影に覆われたこの今に深まる痛みは、やがて末法の痛みとなり、三十三間堂の千体仏に及んでいく。
「仏の海に/たたなわる波//地にのびひろがる/放射線の波//堂宇をうめつくす/千体の仏のしじま//音もなく浸食される/われらの地//無辺際のあわれみは/矩形の壁でくぎられ//とめどない嗚咽は/避難所に閉ざされ//濁世から追いやられ/身をよせあう仏たち//避難者は四散し/記憶は砕けた宝石となって転がり//仏法の滅びに/千のまなざしがおののき//線量計のゆらぎに/凍てついた目が吸いつき//仏の光は/朽ちかけた像からあやうく洩れ//原発建ててはならぬまことを/汚された野と山がことばなく叫ぶ」(「福島原発事故
哀歌―三十三間堂で」全文)
 山本英子『花・深い日傘の』(私家版、近江詩人会などで入手可能)は、この世に居場所のない者たちが抱える様々な傷を、象徴性と肉感性を巧みに交錯させなが描きだす。各作品にはDVなどの事件や自死といった悲劇が暗示されるが、言葉はひたすらまっすぐに命の次元に向き合いつづける。痛みとは命の叫びでもあるという真実。それを作者は詩によって深めていこうとする。一方、性愛の愛おしさと虚しさを、宇宙的な視野で描く次の詩も面白い。
「花嫁は/柩の中//花婿は空を飛ぶ/万の大群で//業花は無音の大河を成し/罪雪は崩落し続け//時は時と無限に交合し時を産み/人類が示準化石となる/億年の彼方/生命生産工場跡を広大な風が行く//かつて存在した/美しい男たち/農夫よ/樵夫よ/漁師よ/そして/猟師よ/鉱夫たちよ//素裸で/花嫁は柩の中//万の花婿は空を飛ぶ/純白の体液をまっすぐに引いて」(「鮫小紋の裏」全文)
 朴八陽『麗水詩抄』(上野都訳、ハンマウム出版)は、植民地下朝鮮では文学者・新聞記者として、解放後は朝鮮民主主義人民共和国の文学者として活動した詩人のアンソロジー。韓国では少しずつ研究が進んでいるようだが、詩人の評価はいまだ南北分断の政治的な影響を免れられないという。植民地時代の朴の作品は確かに抜きがたい鬱屈が漂う。だがそれを突き抜けて、春は必ず訪れるという希望へ向き直る向日性がある。それは、体制を超えて書きつづける強靱さでもあるのだ。
「うたうにはあまりに悲しい事実/百日紅のように真っ赤に咲くことも叶わぬ花を/菊の花のようにいつまでも咲くこと叶わぬ花を/冷たい雨風に打たれ散るか弱い花を/うたうよりは手にして泣くだろう//だが ツツジの花は訪れんとする春の姿を思い描きながら/寒風が吹きすぎる山肌で むしろほほ笑み告げるだろう/「いつまでも永く咲くは 花にあらず/先がけて春を知るのがまこと真の花だ」と。」(「あまりに悲しい事実―春の先駆者 ツツジをうたう」)

2021年10月18日京都新聞朝刊文化欄「詩歌の本棚・新刊評」

 最近詩で京言葉を初めて使った。東京から京都に来て長い年月が経つが、その時母語である標準語からふっと解き放たれた気がした。意味や感情に柔らかさが生まれ、風通しがよくなり、対象がぐっと近づいた。
 方言には標準語にはない生命力がある。京言葉にも柔らかさや雅さで、標準語がとりこぼしてしまう情感をつかみとる力がある。母語として用いる場合はなおさら、身の内からあふれるものをふうわりと抱きとってくれるだろう。
 橋爪さち子『糸むすび』(土曜美術社出版販売)は、全25篇中4篇で作者の母語である京言葉を用いているが、それは、本詩集の中心的モチーフが母への愛であることと密接な関係があるはずだ。「白寿を迎えてなお、祝祭の方向を無心に見上げている母の姿は、私には、宇宙の慈光を具現化したもののようにも思え、とても大切に感じます。それらを追う風のようでありたいとも。」(あとがき)星を見つめる母、母を見つめる私、そしてかけがえのない最後の日々を紡ぐ数々の小さな出会いーやがてそれらがみな「色あざやかな糸」となって結びあうことを、作者は予感している。
「肩の後ろを/水の垂れるような音がずっと付いてきよる/誰や 振りかえる眼のおくを/撫でるように優しい翳が横切りよる/その柔らかさが かなんのや//実は私のかあさん/車椅子の前屈みに今はもう/ほとんど喋らへん笑わへん怒りもせんで/病室の遥か彼方を仄暗い眼えで見つめたままや//かあさん/かあさんも産みたての私を初めて抱いて/その滴るように無垢な柔らかさに思わず/私を落としそうになった日の怖れ/よう 覚えてるやろ//あの遠い日の怖れと今いまの今日/死の腕(かいな)にふかふか抱きしめられてる怖れいうのは/えら
いこと似てるのやないやろか//明日は/かあさんの古い着物つぶして作った巾着に/水蜜桃ふたつ入れて見舞うさかい」(「もも」) 

 有馬敲『もっと 光を』(澪標)は、京都生まれのオーラル派詩人である作者が、散歩道を歩くような自然体のテンポと語彙で、京都の風景と一体化した老いの日常を綴る。出町柳三角州辺りを描く詩は、病の不安に研ぎ澄まされた作者の五感をとおし、川の煌めきや堰水の音がリアルに伝わってくる。最終章は6篇中5篇が京言葉の詩。母語が時代への思いを、歌のように解き放った。
「まあ そう怒らんと 笑えよ/笑えよ 笑え/まあ そう威張らんと 笑えよ/笑えよ 笑え 笑え/まあ あほになって 笑えよ 笑え/くさらずに 頭をあげて/笑えよ 笑え 笑え//まあ そうむずかしいこと言わんと/笑えよ 笑え 笑え/この世はなるようにしかならん/笑えよ 笑え/お笑い芸人のように ひけらかさんと/笑えよ 笑え 笑え」(「自然体」)
 安森ソノ子『京ことばを胸に』(竹林館)は、京言葉が「肌から離れない」ものとなっている作者が、母語とあらためて向き合った詩集。話者である「京女」の無垢で雅な声は、作者個人を超えた無数の母の声のようでもある。京言葉で異国体験を綴った詩や、「御所ことば」を使った言葉遊び風の詩が興味深い。
「おあかりも揃えられ おみつあしの形もあもじの好みとせんもじ様の好みに合わせてございました なかつぼからつぼねぐちの方へ つもじが飛んできて しんみょう達も ひもじも いとぼいつもじに ごきじょうさんなおみかお 小鳥も はやばやと お祝いに来た様子です」(「きゃもじなおめしもの」)

11月13日「現代詩の祭典」で講演します

11月13日に紀の国わかやま文化祭「現代詩の祭典」で講演をします。

 

紀州・熊野をめぐって詩を書き、詩集『新鹿』と『龍神』が生まれた経験について語ります。

 

中上健次さんと深く関わる詩「新鹿」一篇が話の中心になると思います。

 

詳細は以下のサイトにあります。宜しくお願いします。

https://kinokuni-bunkasai2021.jp/event/a066/

 

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2021年9月6日京都新聞文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 詩は戦争を伝えることも出来る。詩だけに可能な伝え方を模索するならば。心の内奥で死者と出会う経験を重ねて、それは掴み取られる。幻視する非業の姿、どこからか聴こえる叫び、悲劇を伝えてと託す声。やがて無意識を突き動かされて、新たな詩が始まる。
 石川逸子『もっと生きていたかった―風の伝言』(一葉社)は、戦争被害者のかすかな声々を、歳月を越えて吹く風にのせて伝える。反戦詩でありつつ文体に透明感があるのは、作者が痛みに寄り添い声の媒体に徹するからだ。語られる出来事は悲惨だが、どこか夢のような雰囲気をまとう。本詩集は今を生きる者が夢に見ることもない、名も命日も知られない死者を、詩という夢において愛しむ。
「ヒトはどうして おなじ ヒトを/それも 会ったことなどない ヒトたちまで/飢えて死ぬほど空腹でもないのに/がばっと 殺せるんでしょうか//菜の花が/ゆれながら/風にきいた//風は/かおを しかめながら/雲にきいた//雲は/ながれていきながら/月にきいた//月は/首をふって/くらい海にきいた//海は/底にたまっている/泥にきいた//泥は/いっしょに埋もれている/ヒトのされこうべに きいた//されこうべは/だまって ただ/ひっそり涙をながしていた」(「問い」全文)
 ぱくきょんみ『ひとりで行け』(栗売社)は、済州島四・三事件をモチーフとする。事件は一九四八年、朝鮮半島の統一を訴える左派勢力の武装蜂起に端を発し、「アカ狩り」により一般の島民を含む約3万人が虐殺された悲劇だ。七八年から作者は、長らく故郷の済州島に戻れなかった父と同島を何度も訪れる。そこで誰かを探すかのように宙をさまよう老いた父のまなざしと「眼の奥の闇」に触れ、見えてきた光景、聴こえてきた声に突き動かされる。「ことばにしたら真実を隠すことになるのかもしれない。」と葛藤しつつ、本詩集を編んだ。
「二〇一七年の済州島では/方々の代々の土まんじゅうがあつめられ、あつめられ、/小高い丘の広大な敷地に あつめられている/それは、大きな意思のもとに集合している、ともいえる/石の墓守たちも 寄り添い/海をかなたに 臨み/空にまた 近づき//ここは、生者と死者が等しい重みで、生きているところ//花が咲いていなくても ひかりいろに満ちている//確かに、死者たちは慎ましく土くれとなり/いまも蒔かれる種に惹かれているはずだ」(「ハングゲ 二〇一七年」)
 李芳世『クドゥリ チョッタ(彼らがすき)』(ハンマウム出版)は朝鮮語60篇、日本語20篇の詩を収める。「一篇の詩は、一通の心の手紙だ。」(あとがき)という作者の詩は、巧みなリズムで率直に胸を射る。平易な言葉に込められるのは、今困難な状況下で母国語を学ぶ子供たちへの深い愛情だ。それは言葉を二度と奪われまいと守ってきた全ての人々の思いでもある。「裸のウリマル」は遙かから慈しまれ、明るくすこやかに響く。
「ウリマルが聞こえた/スーパー銭湯でのこと/露天風呂でゆったりくつろいでいると/耳に入ってきた親子の会話/アボジが言った/ハッキョおもしろいか/子どもが答えた/うん。そやけどヨジャがなまいきや/アボジが笑った/子どもはうつむいた/子どもがアボジに向かって言った/チュック イルボンハッキョに勝ったんやで/アボジがへえと喜んだ/子どもはにっこり笑った/ただそれだけのこと/ほんわか ぽかぽか/裸のウリマルがそこにあった」(「はだかのウリマル」全文)

2021年7月19日京都新聞朝刊「詩歌の本棚・新刊評」

 すぐれた詩は音楽に似る。だが音韻が美しいというだけでは「音楽」にはならない。心と心が響き合うという言い方でも説明出来ない。「音楽」はむしろ心が消え果てた冷たい空虚からやって来るように思う。言葉が読み手にひそむ空虚に触れ、不思議に鳴らす。そして無音の「音楽」は生まれる。まるで思わぬ内奥の傷が、新鮮に痛み出すように。
 颯木あやこ『名づけ得ぬ馬』(思潮社)の詩世界をみたすのは、澄明で冷たい空虚だ。そこから深い苦悩を経て研ぎ澄まされた言葉がこちらへ、というより天へ垂直に射られる。同時に言葉は読む者の内奥に突き刺さり、響く。どの詩でも愛や祈りをめぐる痛切な自問がなされつつ、自己や現実はつよく否定される。だがむしろそれゆえ比喩は煌めき、撞着語法は官能的で、詩だけに可能な「音楽性」が生まれている。自立する身体の部位、雪や獣など北方のイメージの多用は、パウル・ツェランの詩世界を想わせるものがあるが、思えばツェランも、アウシュヴィッツの苦悩が生んだ極北の空虚から、煌めく言葉を放つ詩人だった。
「湖面を渡って/霧をぬけて/黒い毛並みかがやかせ/きたのだね、/名づけ得ぬ馬//わたしは 馬に呼びかけるすべなく/蜘蛛の糸を爪弾き/つめたい泉を掬ってはこぼす//きたのだね、/名づけ得ぬ 夏の日//窓はまばたき 兆し捉え/いちばん伸びた向日葵に 一礼するひとびと/すべての耳たぶは 鈴/蜉蝣が ゆめから色彩を吸って生きはじめる//知っているよ、/その背中にまたがって疾走すれば/累々 乙女の屍あふれる谷で 風に斬られる日もある/谷底には ただ ことばにならない雫が/はりつめているだけということ//名づけ得ぬ馬が/まなざし熱く/わたしの真向かいに立つとき//わたし全体を 駆け抜けてゆく蹄がある」(「おとずれ」全文)
 尾世川正明『糸切り歯の名前』(同)の詩行は、軽妙に水平にずれていく。ナンセンスの力で時空は次第に浮き上がり、意味が重さを失い身軽になった言葉は、おのずと歌い出すようだ。「今様の形式だといういろは歌を崩して詩を書いているうちに、また近年、地震やら津波やら疫病やらを経験するうちに、今回の詩集を私流の今様、「歌」だと考えたくなってきました。」(「あとがき」)。空虚の寂しさを浮力として口ずさむ「歌」は、どんなモチーフをも現実からふわりと遊離させ、事物や生き物に自由と生命力を回復させる。「ねずみの歌」は、本詩集の自注詩としても読むことが出来よう。
「この国では人間たちはさておき/天井裏のねずみたちはみんなこの宇宙は/結局のところ不可知であると気がついているのだ/一千万年生きたってこの宇宙のことは何もわかりはしない/そして昨日も今日も何も疑わないし尋ねない/だからねずみたちはほそい穴は通るけれど/その先のことは考えない/むしろ走りながらねずみはねずみのうたを歌うという/口と心を少し曲げてひげを前方の暗闇につきたてて/宇宙の片隅の穴を走ってうたを歌う/開きかけた白木蓮の蕾のように口をとがらせてうたを歌う/うたは天の川が見える天上で広がって/雨のよ
うにしたたり落ちてくる」「昔からほそく長い穴の暗闇を走っていた種族の/先祖から運命づけられた使命がある/宇宙の無限軌道を/走り抜けるいわば列車旅行の乗客として/薔薇の花束のように鮮やかに/百合の花束のように滑らかに/走って/やっぱりその先の星雲を曲がったあたりで/うたを歌うのf:id:shikukan:20210719225629j:imageだ」

 

2021年6月7日付京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 視覚は現代詩において重要な感覚だ。だが見えるものを日常的に見ることからも、また見えないものを観念的に見ようとすることからも詩は生まれない。そうではなく日常や観念によって見えなくされている世界のすがたを、言葉の力で陰画のように可視化する時詩は生まれる。反世界の魅力をたたえながら。
 山村由紀『呼』(草原詩社)はそのような世界の陰画を、日常や記憶の光景をなぞりながら、巧みに現出させる。詩集をみたすのは魂の現像室を思わせる暗い光と、事物たちの不穏な気配。情景は廃墟のようだが甘いノスタルジーはなく、死と接するはりつめた意識が伝わって来る。幻視のような視覚をとおし作者が「呼ぶ」のは、見えているのに見えないものたちだ。見捨てられた事物や死者、そして傷ついた生者たち。次に引用する「真夜中の向日葵」のすがたには、昼の光の下では見えない者たちの苦悩が、鮮やかに可視化されている。
「よなか。//夜のまんなかで//仰ぐものを失くして立ち尽くす/向日葵の群れ//陽をふくんだ黄色い花びらが宿す 炎のけはい/着火してはいけない 向日葵 よるの/やみにかくそうとして かくしきれない炎が/立ち昇ろうとするのを やみくもにゆれて/細い 太い 茎の脊髄をきしませて/やみくもにゆれて//消したい 消えたい/向日葵 真夜中の向日葵/花びらに囲われた無数の眼で/見てしまった 知りすぎてしまった//夜のなかで咲く向日葵/夜のなかで叫ぶ向日葵/声は天に地に垂直に届く//陽が火にくべられる/八月中の蜜蜂が/がっ、だっ、/目覚める間もなく/一気に燃える」(「秘密」全文)
 草野信子『持ちもの』(ジャンクション・ハーベスト)もまた「見えているのに見えないもの」に迫る。「持ちもの」とは言葉のこと。表題作で「とるものもとりあえず」赤ん坊を連れ難民となった母親は語る。「おさないいのちのほかは/何もかも残してきた故郷から/ことば だけは/持ってくることかできたのだ と気づく/荷物検査所でも まさぐられなかった/わたしの持ちもの」。作者は社会の片隅で痛みを抱える者たちに寄り添いながら、彼らの眼差しに自らの眼差しを重ね、見えて来るものを訥々と言葉にする。多用される平仮名は不思議な息
遣いのようだ。注目するのは一九四九年生まれの作者にとって、「ことば」の原点は学校で先生が音読してくれた日本国憲法にあること。それゆえ憲法を書きかえる「草案」という「やわらかなひびき」に、やがて猛然と生い茂って「持ちもの」を奪うことになる邪悪な「蔓草」のすがたを見るのだ。
「(日本国憲法改正草案/草案 ということばの/やわらかなひびき)//近づくと/草はら は/丈の高い草がしげっている/思いのほか 深い草叢だった//遠い国の戦闘かつづいている/秋の いちにち/その朝から わたしは/少しずつ 草叢を歩くことを日課として//ヤブガラシ のような/葛 のような/からみあう蔓草を たどり/ふしぎな葉脈を見つめた」
日課を終えると/その日 歩いた草叢について/わたしは 小さなメモを書く//草陰のうすぐらい水たまりについて/遠い国の戦闘/飛び立っていくカナリア そして/たとえば 第十三条について//また/ある日は/ひとが踏みしめた跡を見つけたよろこび/小さなけもの になって/わたしがその道を駆けたこと を//(草のうちに 刈らなければ)」(「草案」)

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2021年4月19日京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 詩作品にはそれぞれに固有のトポスがある。一般にトポスとは、例えば故郷のように記憶や情動と深く関わる場所を指す。一方詩のトポスとは旅先から自室に至る、詩が生まれたり詩の舞台となったりする時空のことだ。その実相は、日常の遥か外部にありつつ、作者の内面深くに存在する「どこにもないどこか」といえるだろう。あるいは詩人はトポスの予感に促されるようにして、詩を書くのかも知れない。
 塩嵜緑『庭園考』(書肆山田)は庭というトポスについて詩的思考をめぐらせる。柔らかな感受性と土にそっと踏み入るような丁寧な詩行の運びで、庭の生き物たちのいのちと時にユーモラスに交感する。懐かしい死者の気配にみちる庭=詩のトポスでは、幼年期の五感と古代の原初の感覚が重なり合い、詩が始まる。詩を書くトポスとはどこであれ、たとえ一片の白紙であれ、不思議な聖地なのだとあらためて思う。
「土を均し/煉瓦を並べ/花壇を拵え//実のなる木/風と話す木を植え//円卓に布をかけ/紅茶を飲み/晴天の向こうがわを眺める//柑橘を蝶は好み/トネリコを蝉は愛し/座りの良い枝ぶりに/鳥は巣をかけ//私のいない時間に/草木は伸び//花木は/老いながら蕾をふくらませ/鳥は卵をあたためている//庭はだれのもの」(「庭はだれのもの」全文)
「私が/黄楊のふぞろいなのを/揃えようとして/鋏を入れたのだ//その時の/おまえの驚き様といったら//まず/何事! と/事の次第をわかろうとして/首をあげた/いや その前に/手足を二度三度ばたつかせた/そして/首をのばして/目をぱちくりさせた//それが/私と目があってしまって/一秒 ほんの一瞬のことだったけれど/お互いの瞳を射た瞬間に/庭の時間は止まり/お互いの顔を覚えてしまった//目の大きな/小さな顔の男だった/まなじりが少し皺寄っていた」(「蜥蜴」全文)
  森哲弥『少年百科箱日記』(土曜美術社出版販売)は、H氏賞受賞詩人の九冊目の詩集。「第一の箱」から「第四の箱」までの四部立てとなっている。「箱」は巻頭作「百科箱日記」と関連する。同作では本棚の百科事典が少しずつおのずと膨らみ、ついに家中に様々なラベルのついた箱が溢れる。本詩集の各「箱」には、ライトヴァースから社会、人生、戦争を扱ったものまで、ラベルと陰に陽に関連する様々なテーマの詩が収められる。「百科箱」というどこか懐かしい響きは、昆虫採集や標本箱を思わせるが、作者の詩が生まれるトポスは、作者の中に今もひそむ少年期の時空であるのだろう。日常生活で詩のためのメモを箱に「採集」しているのかも知れない。そのせいか、本詩集には分かりやすく心温まる作品が多い。
「その前夜/星座盤の上に/時ならぬ冬の蝶が舞い降りて/オリオンの彼方に/二連星が輝いたのは本当かもしれない//かれは保育室で新聞紙をひろげ/折紙の牧童帽の作り方を教えていた/その時//テンガロンハットかぶった黒い瞳の/ウエスタンガール 風のように/駆けよってきて かれの耳元で/「だいすき」/耳たぶに柔らかいものが一瞬触れて/かれの肺胞は大粒葡萄のようにふくらんだ/ありふれた言葉なのに/じかに届けられることが/いかに稀であったか だ・い・す・き/片隅にサンタの切り絵が忘れられている/一月の保育室 ふたりの年の差六〇歳//二連星は真昼の天空で輝いている」(「だ・い・す・き」全文)