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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2015年6月1日付京都新聞朝刊・詩歌の本棚/新刊評

 去る五月十六日、公開座談会「ラクダが針の穴を通るとき―3.11後の時代と女性の言葉」が京都であり、パネラーとして参加した。震災と原発事故の被害が続く今、被災地から遠い関西で3.11後の詩をいかに紡いでいけるかが議論された。直接的な体験に近づくために書くのか、自分の問題意識を触発するためか、だがまずは人間が描かれなくてはならないのではないか―。様々な意見が交わされた貴重な時間だった。「3.11後詩を書くのは野蛮か」に応答する糸口を、参加者それぞれが掴んだ。

 広田修『zero』(思潮社)がシュレアリスム的手法で描き出すのは、世界の変容というより、自己と世界との間に生まれている微細な亀裂である。「現実という水」が失われた「水のない海」としての「僕」は、論理と直感を擦り合わせながら、干割れ続ける世界との関係を言語化する。例えば月に到達するために人を燃やし、人の炎でサソリを燃やすことで月に到達するという神話的作品「月」は、3.11の死者への極北的追悼詩とも思える。

「最後の死体を燃やし終えると、人は月の上に立っている。月はすべての世界の交点であり、無限に足しあわされた切片である。人は肉体を忘却し、海を忘却する。理由のない、灰汁に満ちた怒りに視界を覆われる。そして、静かに分裂しながら、無数の痛ましい麻糸となる。//月の上には夥しい数の人の死体がある。それらの死体が風に吹かれるごとに、地上では、例えば一個の林檎の実が生まれる。」 

 武西良和『遠い山の呼び声』(土曜美術社出版販売)は、いつしか人と文明を包囲している、窺い知れない叡智をたたえた自然の濃密な気配を、換喩と擬人法によって巧みに描き出す。詩集にざわめく山々の緑は、人と自然との豊かな関係をうたうのではない。むしろ自然は人を無視し、人のいない新世界を創造するために生命力を増している。その濃密な世界では、人の存在は不在や空白として表現するしかない。この詩集は3.11後の人と世界との関係の変容を、草いきれやざわめきの中から伝えてくる。

「水から遠く離れ仕事からも離れ/ひっそりそこにある舟の形が緩んでいく//一面緑に塗られてしまって舟を塗る/絵の具がない/舟は長くそこにいたために/形に倦き色を忘れて/そこから抜け落ちそうになっている//濁った川で魚が跳ねた//魚を入れる魚籠は舟の記憶/場所は容れもの/草むらのなかに次第に深く埋もれていく舟/そこから舟は出ようとしている//単線の鉄橋を上りの電車が/音を立てて渡り始める//もう絵筆はいらない/筆を水で洗おう」(「橋の上から」)

 古家晶『西陣舟橋追想』(文芸社)は詩選集。昭和初期から京都に生きる作者は、詩作によって往時の時空へ感覚を研ぎ澄まし、今蘇る過去の姿と向き合う。無事を祈って出征兵士が見送られたという一条戻橋で出会ったものは―。

「あれから四十年/通りかかって、夜の戻橋にたち寄ったら/由来の立札も新しく/鬼女がひそむほどの大木も水車もなくなって/この橋から旅立った幾萬の若者たちの/お精霊(しよらい)さんが/お盆でもないのに/くらがりにあふれていて/はじき飛ばされた//集合の駅の名も告げずに/ひとりで歩いていった少年兵は//まだ私のなかで 夜道を/駅にむかって歩いている」(「戻橋」)

『名古きよえ詩画集』(澪標)の作者は美山町知井出身。茅葺き屋根と緑の美しい故郷への思いを、色彩と言葉にこめる。3.11後の痛切な祈りに満ちた一集。