『現代詩手帖』2月号(出てからもう一ヶ月以上経ちますが)に
詩人の辻井喬さんへの追悼文を書きました。
辻井さんが亡くなったのは昨年11月25日。
病状が悪化されていたことも全く知らず、
ネットで第一報を知った時はまさに不意打ちでした。
この追悼文で触れた朗読会に来ていただいた時、
控え室でふと振り向くと
「来ました」とにこやかに笑みを浮かべて
辻井さんがそこに立っていたのを思い出します。
その笑顔がすごく純粋で清らかな印象で、
まるで少年のようだと思ったのを覚えています。
亡くなる一ヶ月前には
私を含めた三人で作った連詩集が賞を受けたので
そのお祝いにワインを送って下さいました。
とても濃厚な味わいでした。
たとえば空と光と風と雨、そして星と詩が
無数の季節に濾過された、とでも言うような、
その苦みの余韻が
今も私の中に暗く響いています。
言葉に差別を刺す鋭さを与えよ
河津聖恵
辻井喬さんが亡くなった。喪失感は今も重苦しい鐘の音のように、身体深く鈍い痛みを伴いながら反響している。遺された言葉から、今を生きる私を撃ち励ます声を聞き続ける。辻井さんは現代の空虚を鋭く感受しつつ個における歴史意識をつねに模索し、現実の矛盾に抗ったほんものの詩人だった。今、戦後の空虚がどす黒く煮詰まるように立ち現れてきた新たな戦前の闇と、まるで差し違えるように逝ってしまわれた。偶然とも思われないその符合に胸をつかれる。私たちはこの詩人の存在と喪失について、時代と自分の関係を切り結び直しながら、考え感じつくさなくてはならないだろう。
初めてお目にかかったのは、2009年H氏賞選考委員会の席だ。その時は隣同士に座りながら、特に私的な会話を交わすことはなかった。ただ選考の過程で私が推した詩集について、もっとしっかりとした社会的な視点が欲しいという反対意見をきっぱり示され、想像していた以上に現実との関係を詩に求められていることに刮目した。
奇しくも直後、その数年前雑誌に寄せた詩がある在日朝鮮人の文学者の目に止まり、私は在日の人々と交流するようになった。生まれて初めて知る日本のもう一つの姿に驚きたじろいでいると、同年末私の住む京都で右翼による朝鮮初級学校への襲撃事件が起こった。そして翌年2月、当時の鳩山政権は高校無償化法の適用から朝鮮高級学校を外してしまう。その除外容認は、政治家と巷間双方から同校への無際限のバッシングを誘発していく。
私は「ハッキョへの坂」という朝鮮学校の生徒へのエールともいえる詩を、除外反対を訴えるリーフレットに載せた。それを読んだ同校出身者の詩人と知り合い交友を深め、2010年6月に彼女と二人で『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』を企画した。8月に予定している文科省への要請に合わせて締め切りは一ヶ月後、というハードスケジュールで寄稿者もほぼ闇雲に募ったが、真っ先に承諾の返信をくれたのが辻井さんだった。どれだけ励まされたことか。やがてエッセイと詩が送られてきた。エッセイには、父親が箱根や熱海の観光地開発をやっていた当時、土木作業の現場に遊びに行き朝鮮人労働者と親しくなったこと、そしてその体験は学校でいじめを受け「差別についての嗅覚」が鋭くなっていた幼い心に深く刻まれ、後の詩人の、日本の差別社会への批判の原点となったことが綴られている。「日本では愚民ほど差別を好む」という逆境の中で果敢に戦ってきた人々への率直な励ましと共感が、私の心を打った。
詩「オモニよ」にも差別への怒りがこめられている。驚いたのは、私の「ハッキョへの坂」に対する応答の一節があったこと。リーフレットで同作に目を止め、私の思いを受け止めて下さっていたのだと知り、胸が熱くなった。「高銀がハングルを取り戻したように/鳥が海峡を越えるためには翼が必要だ/ある晴れた日に囀りが響き合うために/むかし使った直喩の錆を落し/言葉に差別を刺す鋭さを与えること//オモニよ/わたしは空を取り戻そうと思う/ハッキョへの坂の上の雲が/自由に海峡を渡っていけるように/その日まで帝国の犯した罪を忘れず/啼き交わす鳥たちの喜びを夢みて/生きていこうと思う」(第三連と第四連)「生きていこうと思う」という詩の結びに、辻井さんが振り仰ぐ未来の空が私にもたしかに見えた。
2010年12月12日、東京・新宿にある会場で『アンソロジー』の朗読会を行った。子供を国策によって差別することへの抗議集会をかねてのもので、趣旨に賛同してくれた160名の観客が集まった。辻井さんは、この会で朗読だけでなく四方田犬彦さんと対談もして下さった。「無償化除外は差別であり、恥ずかしい歴史をまたなぞらえること。絶対認められない。言論の自由、思想信仰の自由を除外する動きが日本の政治家の中にある」、「日本はまだこんなことをやっているのか」と強い口調でおっしゃった。冒頭では「河津さんが怖いから来たんですよ」と座を和ませても下さった。開始前に二次会にお誘いした際、体調が良ければというお返事だったが、終了後気づけば辻井さんの姿は消えていた。良くはない体調を押して来て下さったのである。
亡くなる直前まで反対されていた特定秘密保護法案もついに可決した。朝鮮学校もいまだ無償化から外されたままだ。しかし、だからこそがんばれ、という辻井さんの声が聞こえる。詩人であるかぎり「言葉に差別を刺す鋭さを与えよ」と、私を未来の空へと振り仰がせる。