『詩と思想』2016年1・2月号に、
時評「「毒虫」詩論序説―安保法案可決以後」が掲載されました。
今年(2015年)9月の安保法案可決の前々夜に国会前のデモに参加した体験、
そして法案可決の翌朝に心身で実感したことから、
これからの詩をどう考えたらいいかを自分なりに模索しながら書いたものです。
あくまで個のものであるしかない「詩を書く行為」は
理不尽な権力に対峙するだけでなく、
集団的な「デモという行為」にも向き合って立たなくてはならないと
渦中において私は思いました。
もちろん決して、デモを否定し冷笑し、詩と無縁なものと考えるのではありません。
むしろ詩を書く行為はデモという行為からつねに問われていると思います。
「詩に今何ができるのか、何もできなければ参加せよ」
しかしそう絶対的な声で問われたあとに 詩は、小さな声で問い返す、
あるいはむしろ問いただすことが出来なくてはならないのではないでしょうか。
それがどのような問いであるのか私にもまだ分からない。
けっきょくは虫のように、誰にも聴き取られない言葉なのかもしれない。
しかし小さな声であることに自足してもいけない―。
そんな錯綜した思いのままにつづった小論です。
もちろん「毒虫」は詩と政治のはざまで苦しみ続けたがゆえに素晴らしい詩を遺した、
黒田喜夫の詩「毒虫飼育」から採っています。