#title a:before { content: url("http://www.hatena.ne.jp/users/{shikukan}/profile.gif"); }

河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2022年12月19日付京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚/新刊評」

 鈴木志郎康氏が亡くなった。1960代から70年代、無意味な言葉と身体性で日常と体制に挑み続けた「極私的ラディカリズム」の詩人である。半世紀前の言葉を読み返しているが、それらがなおアクチュアルなのに驚く。コロナ禍や戦争の文脈が日常に次々浸透している今、「その価値体系に一時的な混乱を与える」(『極私的現代詩入門』)詩とは何かを氏の著作は鋭く問いかける。かつて京大西部講堂の闇の中で観た実験映画も鮮烈だった。
 北島理恵子『分水』(版木舎)は穏やかな筆致で、かすかでありながら決定的な異変を日常に呼び込む。鋭敏な比喩と巧みな語りが、現在と過去、生と死を甘美に混乱させ、その混乱そのものがおのずと詩を輝かせている。読む者は日常のただ中に潜む反日常に、ゆっくり誘い込まれていく。例えば主のいない部屋に、小鳥が突然入って来る「部屋」。この詩では小鳥=死者という読みも混乱していく。命そのものにある切なくも激しい喜びによって。
「主のいない/西向きの部屋/半開きになったドアのむこうで/レースのカーテンが/内側にふくらんでいる/食間食後/薬を飲むために/机の上に常備していたウエハースの袋が/いつもとおなじ口の開き方で/カーテンの端に触れている//明かり取りから/小鳥が一羽入ってきて/その透明な袋にもぐり込んでいく/主であった時のように/薬の時間を気にすることもない/残った欠片を/好きなだけ啄んでいる/五色の/刺繍糸に似た羽を/袋いっぱい広げ はしゃいでいる/せわしなく陽気に/そう 主であった時のように」
「仮の巣の方角に飛び立つ/色を無くした小鳥/白に黄 群青 紫 みどり/羽色を託されたウエハースの袋が/霞んだ故郷の空に/舞い上がっていく」
 また「二〇一五年八月三〇日」は死者たちが安保法案抗議集会に向かう詩。当時同じく国会前で私も「死者が近くにいる」と感じたが、その不思議な感覚が見事に詩として立ち上がっている。
「キヨさんは/お手製の晒の旗を/透けるほど青白い腕で掲げている/わたしも負けじと/させない の文字をピンと張って歩く/乳飲み子を背負った母親も/若者たちも/車椅子の老人も/すきっ歯みたいな白い建物めざして/じりじり進んでいく/そこここに増えていく/モンペ姿の婦人たち」
 渡ひろこ『柔らかい檻』(竹林館)もコロナ禍と戦争がもたらす不安、そして親族の突然の死による悲しみに挑む。一語一語、不安や悲しみの「柔らかい檻(おり)」を外すようにして、言葉は丁寧にたしかに運ばれる。各所で美しくきらめく、感情を昇華する比喩が魅力的だ。巻頭の「漂流列島」は、日常が押し隠すこの国の真実の姿を、くっきり浮かび上げてみせている。
「日常から切り離され/救いの手を待ちながら/ベッドに横たわる姿は/もはや誰にでも有り得るのだ//今、この国は沈みそうになりながら/漂流している一艘の小舟/船頭はいても舵の取り方を知らない/命を預けた器はまがい物だった//明日、白い蜘蛛の巣が肺を覆うかもしれない/見えない脅威に怯えながら/綱渡りの日々を送り/ため息混じりに空を仰ぐ//何物にも侵されない空は/自由奔放に泣き笑いを繰り返しながら/それでも天窓から/すでに船頭が失せ、溺れる人々に/憐憫の光を差し伸ばしている」
 山田兼士氏の訃報にも接する。最新詩『ヒル・トップ・ホスピタル』(山響堂)の、病=反日常がもたらす「本当の生」の予感に突き動かされた言葉が、胸に迫る。