ランボーが好きです。
その言葉に?まれたまま、永遠に揺さぶられていたい
と思うほど煌めく言葉が
詩のそこここに眩しく、また怪しく鏤められているから。
きっとやはり、つかまれて、永遠にゆさぶられていたい
と思って翻訳してきた人はこれまでもたくさんいました。
小林秀雄、中原中也、金子光晴もしかり。
恐らくどんな国語のプリズムをも、時代を隔てる膜をも
またたくまに透き通らせるのでしょう。
世界の一瞬の虹色を今ここに現出させる詩、詩そのものを
ランボーはたしかに見つけてくれた魔術師です。
さらにこの新訳はすばらしい。
これまでのどの訳よりもランボーの詩への意志、若い速度を感じとらせてくれる。
俺は出かけたものさ、破れたポケットに拳骨を突っ込んで、
俺の外套もまた非のうちどころのないものになっていた
俺は大空の下をどんどん歩いた、ミューズよ! それに俺はおまえの忠僕だった。
いやはや! 俺はなんと多くの輝ける愛を夢見たことか!
(「わが放浪」)
この外套の形容「非のうちどころのない」は凄くいいです。
別の訳では「目もあてられぬ」というのもあるけれど
私はランボーは詩への放浪に何の後悔もなかったと思うな。
恐らくランボーを訳すということは
ランボーと共に放浪する覚悟と喜びに突き動かされてのことです。
だから訳者である鈴木創士氏の「あとがき」はすぐれてランボー的なのです。
「もう一度言おう。ランボーはただ通り過ぎた。ランボーはいたるところを歩きまわり、彼の足は信じられないくらいに速かった。それがずっと後にランボーの右脚を切断させることにもなったのだが、そのことはここでは言うまい。だが独特の「速度」は彼の文体の特徴を生み出さずにはおれなかった。ランボーは、ランボーを師と仰いだビート詩人たちがそうであるよりはるかにずっと「ビート」である。」
そのビートの息吹を伝えたいという理由で
この本には訳注が一切ありません。
だから文字が大きく、目にどんどん入ってきます。
いつしか私たちの隣にランボーがいて今一度放浪するように。