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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

いつしか私たちの隣にランボーがいて・『ランボー全詩集』(鈴木創士訳・河出書房新社)

ランボーが好きです。Image1192
その言葉に?まれたまま、永遠に揺さぶられていたい
と思うほど煌めく言葉が
詩のそこここに眩しく、また怪しく鏤められているから。

きっとやはり、つかまれて、永遠にゆさぶられていたい
と思って翻訳してきた人はこれまでもたくさんいました。
小林秀雄中原中也金子光晴もしかり。

恐らくどんな国語のプリズムをも、時代を隔てる膜をも
またたくまに透き通らせるのでしょう。
世界の一瞬の虹色を今ここに現出させる詩、詩そのものを
ランボーはたしかに見つけてくれた魔術師です。

さらにこの新訳はすばらしい。
これまでのどの訳よりもランボーの詩への意志、若い速度を感じとらせてくれる。

俺は出かけたものさ、破れたポケットに拳骨を突っ込んで、
俺の外套もまた非のうちどころのないものになっていた
俺は大空の下をどんどん歩いた、ミューズよ! それに俺はおまえの忠僕だった。
いやはや! 俺はなんと多くの輝ける愛を夢見たことか!
                                                                   (「わが放浪」)

この外套の形容「非のうちどころのない」は凄くいいです。
別の訳では「目もあてられぬ」というのもあるけれど
私はランボーは詩への放浪に何の後悔もなかったと思うな。

恐らくランボーを訳すということは
ランボーと共に放浪する覚悟と喜びに突き動かされてのことです。
だから訳者である鈴木創士氏の「あとがき」はすぐれてランボー的なのです。

「もう一度言おう。ランボーはただ通り過ぎた。ランボーはいたるところを歩きまわり、彼の足は信じられないくらいに速かった。それがずっと後にランボーの右脚を切断させることにもなったのだが、そのことはここでは言うまい。だが独特の「速度」は彼の文体の特徴を生み出さずにはおれなかった。ランボーは、ランボーを師と仰いだビート詩人たちがそうであるよりはるかにずっと「ビート」である。」

そのビートの息吹を伝えたいという理由で
この本には訳注が一切ありません。
だから文字が大きく、目にどんどん入ってきます。
いつしか私たちの隣にランボーがいて今一度放浪するように。