昨日、喫茶美術館で第2回「尹東柱を読む会」が行われました。
第1回目にもまして、東柱の詩について、そして東柱をめぐって詩とは何かについて
熱い意見が交わされました。
第一部講師は、日本キリスト改革派名古屋教会牧師で詩人でもある木下裕也さん。
「尹東柱の詩と信仰」というタイトルで
東柱の詩に、その信仰がどう関わっているのか、
あるいは詩人としての東柱と信仰者としての東柱は
どんな関係にあるのか、をめぐって
丁寧に語っていただきました。
東柱と同じ信仰者の立場からの貴重な考察でした。
韓国の教会は、とりわけ神社参拝が強要された時代
苛酷な試練を強いられたそうです。
しかしその苦難のために、
韓国の教会は、つねに民衆の苦しみに寄り添う存在だったのです。
だから
世界の抑圧されたすべての人々との連帯、
世界平和を志向するものとなったそうです。
そしてキリスト教信仰における原罪意識こそが、
東柱においても普遍性を獲得する根源だったこと。
また聖書には
永遠者、絶対者なる神のまなざしのもとで
あらゆる人間を普遍的に見る目があるということ。
そのことが
東柱の詩を抵抗の詩だけに終わらせず
その詩にキリストの十字架にもとづく赦しと和解のモチーフを与えているということ。
そして東柱にとってそれはもちろん
大きな苦悩や葛藤をくぐり抜けて、到達した境地であること──
つまり、
「序詩」の「天」は「空」ではなくあくまでキリスト教の「天」であり
「すべての死にゆくもの」は
東柱自身を含めたすべての人間を指す、
というのが木下さんの考えです。
ではなぜ東柱は戦時下の日本へ来たのか。
すでに多くの人が危険な目に遭っているのを知っていたはずなのに。
しかもなぜハングルで詩を書いたのか。
それはとても危険なことだったのに。
木下さんは東柱のその謎の行為に
調和を突き抜けた意志を見ます。
それはまるでキリストにならうかのような意志です。
今回
木下さんに語っていただいた東柱の詩と信仰の関係から
みえてきたのは
詩と宗教と政治という
詩人にとって「原点」ともいうべき三つの次元の関わりです。
東柱においては
宗教はキリスト教、政治は民族主義ということでしたが
この二つの内容は様々であれ
すぐれた詩を書きたいと思う者にとって
宗教と政治はつよく意識せざるをえない次元であるはずだ、
と私も思っています。
宗教と政治。
それらは精神と現実という次元の違いはあれ
どちらも
よりよく生きること、より普遍的に人間的に生きることを
根底的に模索するものだと思います。
そして人間がもっとも人間らしくあるように、
という願いにおいては一緒だと思います。
詩はもちろん言葉の美的な次元で
それらと無縁なそぶりで書くこともできるでしょう。
しかしそれでは人の心に届く詩には決してならないのです。
すべてを繊細に鋭敏に突き抜けていく普遍的な詩。
その背後に必ず
宗教と政治についての深い考察があるはずです。
東柱はきっと
詩人でありキリスト教者であり民族を愛する者であったからこそ
戦時下の日本へやって来て、ハングルで詩を書いた。
つまり、そのような意志を持ちえたのです。