京都新聞12月20日付「詩歌の本棚」 河津聖恵
今年私が最も刺激を受けた詩集は、辺見庸『生首』(毎日新聞社)である。帯文にある「反世界」という言葉が強烈だ。現実を言葉の筋力でめくり返し、凄絶な光景を見せつけるこの詩集に相応しい評語だが、ふと「世界」がかつて現代詩のキーワードだったことを思い出した。「言葉のない世界は真昼の球体だ/おれは垂直的人間」(田村�驤黶u言葉のない世界」)、「……私はひとを呼ぶ/すると世界がふり向く/そして私がいなくなる」(谷川俊太郎「六十二のソネット」)というように。戦後詩においてそれは、過去の暗い歴史を断ち切る透明な空間としてさかんに現れた。「セカイ系」という流行語もある現在は「世界」と書き付ける詩人は少ないが、世界の「全体性」を求める欲望は、見えない形ではあれ、詩にはやはり存在する。むしろ秘められた「世界性」への意志は、依然として現代詩を現代詩として輝かせる核である。件の辺見氏の詩集は、一歩進んで、世界の薄闇に抗い漆黒に輝く「反世界」の詩集なのだ。
加藤思何理『孵化せよ、光』(土曜美術社出版販売)には、ランボー、ツェラン、ネルーダ、ロルカ、ジュネといった詩人たちへのいわばオマージュ詩集。各詩人を愛し深く読み込んできた著者は、かれらの詩に寄り添いながら、息つく間もなく(読点もなく)言葉を迸らせる。悲惨な運命にあったこれらの詩人は、詩を書くことで絶望的な世界(すぐれた詩人にとって世界はいつも絶望的だ)をそれぞれ輝かせたが、著者はかれらの輝きを絶やすまいと言葉を畳みかける。例えばアウシュヴィッツがもたらした狂気の光の果て、セーヌ河にみずから身を投じたツェランへのオマージュ──
「だが澱んだ下流で暴力的に捨象されたあなたの骨は温かく透明な千本の指で縫い合わされ/はるか東方の煌めく源流でいずれ奇蹟的に起ちあがるに違いない。/あなたとあなた自身とを隔てる因果律の隙間であるいは種子の祝?と粉雪の黙示の閾に迸/る稲妻に似た亀裂の上であなたは歌う歌いつづける。/河、河、河、河、河、/一瞬の光輝──だが不断に際限なく増殖しつづける酵母。」(「あなたはあなた自身の眸に黒い穴を掘る」)
大谷典子『逆光名所』(編集工房ノア)は、世界を空間的に感知する。だが主体が見上げるそれは、つねに逆光で消され、足下は不安定に闇へと傾斜する。明瞭な言葉で描かれるのは、「眩しい自閉感」。それは、私たちが生きる世界のありようをたしかに言い当てている。私たちの世界の自由とは、実は恐怖の閃光によって絶対的に限界づけられた自由であることを、この詩集は端々から実感させる。
「平和の象徴が飛んでいった/逆光で見づらいなか/たしかに向かっていったシルエットと羽音/それ以上近づくというのか/(中略)/近くて遠い/これ以上近づいてはいけない距離/観覧車も遊園地も海も帆船も見えるけど/こころからお祈りしています/ずっとげんきでお幸せにお過ごしください//聴こえるのは羽音的疾走エンジン/まぶしくて向かう先が/見えない//焼けた鳩の表情は/恍惚としていたか」(「一定距離」)
北条真人『花びらのように』(角川書店)は、詩の原点である世界とのクラシカルな交感を手放さない。
「つゆのしずくがポツンとおちてきて/まばたきながら目をさます/まるで虹の鈴がきこえるよう/二人はそっと耳をかたむけてみる//緑の世界がしみる/そこからはかるい傾斜の/坂のこみちがくだっている」 (「雨だれ」)