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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

詩歌の本棚 2010年11月1日新刊評

昨日の京都新聞朝刊に掲載された詩集評です。現代詩に対する私自身の現在のスタンスを、自分なりに平明に書けたかと思います。

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詩歌の本棚 2010年11月1日新刊評

                                     河津聖恵

 俳句や短歌が音節の数や音の響きによって、私たちの深く隠された「うた」を直接的に呼び起こすものだとしたら、今では散文に近い詩は、まず文字を視覚的に意識させ考えさせる。だが詩が詩であるためには、やはり「うた」がなくてはならないだろう。読む者が意味を考えるまえに、その心をかすかにふるわせる「うた」が。そのために工夫できるのは表記とルビだ。ある言葉を漢字とひらがなのどちらにするか、ルビを付けるか否か。長さが自由である詩は、表記とルビによって音と関わり、意味の緊張を解く。ポエジーとは、おし黙った文字から、やがてかすかに洩れ聞こえてくる未知の「うた」だ。

 丁 海玉(チヨン・ヘオク)『こくごのきまり』(土曜美術社出版販売)は、ひらがなを多用する。それは単に柔らかな感じや口語的印象を狙うためではない。それは恐らく作者が携わる法廷通訳人という仕事と深い関係がある。法廷通訳人は、日本語が通じない被告の法廷で通訳を担う(作者は韓国語の通訳らしい)。例えばテレビなどで同時通訳を聞くと、その日本語はどこか通常のそれとは違うが、相手の言葉の影響を受け、音が変えられるのだと思う。この詩集のひらがなも、外国語と他者に寄り添おうとして、日本語から少しはぐれてしまった日本語の姿ではないか。そのような淋しさといとおしさがある。ひらがなのしんと響く「音」が心に沁みる。

接見室を区切るアクリル板の向こう/ハングッサラミエヨ? と/Yさんがわたしに聞いた/そうです、とか、いいえ、とか、答えられない/私語も無視もできない/かんこくじんですか?/訳したにほんごだけ切りとって押しかえすと/宙に浮いたYさんの声が向こう側で/ぼんやり曇った/自転車を押しながらT先生が世間話をはじめる/アスファルトの上をタイヤがころがる」(「法廷通訳人と呼ばれたときは」)

 たかぎたかよし『夜の叙法 ふでさき─三つの断簡─』(編集工房ノア)のひらがなには、たえず漢字の緊張感が伝わっている。だからその表情は『こくごのきまり』とは違う。時折ふられるルビも、漢字を和らげるのではなく、訓読みに対する作者のこだわりを強調し、作品の緊張感を高めている。どの作品からも、氷が張りつめていくのにも似た結晶化のかすかな音が聞こえる。その背景に存在するのは、死と生に対する研ぎ澄まされた意識だ。

「時の穂先にその名を重ねる。ぼんやりと、木蓮、フリージア。ちらと、まだ咲かぬ青も。/瞑(くら)きにあって、地は核をたぎらせている。原初、遙かな宙空をやってきたものに。言葉もそのような火だった、人以前を抱く。暁光は、内なる漆黒に爆ぜて勁い。」(「篝」)

 門林岩雄『梅園』(土曜美術社出版販売)は、ライトヴァースの軽さや明るさがみちる。各作品は短いが、それぞれに詩情のある「落ち」が工夫され読みやすく、子供のための作品も多い。ひらがなはいきいき跳ねたり笑ったりもするのだ。

「のんきな「の」/のほほんと「の」/いすからひょいとゆかにおり/どっちにいこうかまよってる」「ういやつじゃ うふふふふ/おまえあまざけ/おれはさけ/まあとりあえず/かんぱいしよう」(「いろはざれ歌」)

 現代詩はこれまで読者に、その心をふるわすまえに、意味を理解すること、(あるいは意味が理解できないことを理解すること)を強いてきた気がする。音という普遍的で原初的な次元で、人に訴えかけ、人を惹きつけることを、あらためて試みてみなければならない時ではないか。